1999年、ノストラダムスによれば空から恐怖の大王が降りてくるはずでしたが、何事もなく過ぎ、代わりに平野啓一郎という若い作家が鳴り物入りで芥川賞を受賞しました。
「日蝕」という中世フランスの神学僧が体験する神秘的な出来事を格調高い擬古文で描いて見事でした。
それまで若い作家のデヴュー作というと、若者風俗小説みたいなものが多かったので、とんでもない天才が表れた、と騒がれたものです。
三島由紀夫の再来とか言われていましたね。
その後も明治末、山中で毒蛇にかまれた美青年が夢とも現ともつかない体験をする幻想譚「一月物語」など、佳作を連発しています。
この人の小説を読んでいて、私はかねてから思っていたことが確信に近づきました。
つまり、幻想文学と文学はほぼ同義ではないか、ということです。
古来、物語は神話から始まって、鬼や化け物や妖怪が跳梁跋扈する世界でした。
貧乏くさい私小説でさえ、心の中の妄想を書きすすめれば、現実にはあり得ない幻想世界が現出します。
わが国の古典文学は説話にしろ和歌にしろ能にしろ、みなこの世ならぬものへの憧れなくして生まれえないものです。
そこで、平野啓一郎の言葉。
芸術作品を通じて得られる絶対の体験、我々の聖性の恢復と存在の新しい次元の獲得とが、現代人を救済しうる。
天下の平野大先生がなにをとぼけたことを言っちゃってるんでしょう。
目を疑います。
そういうことは言っちゃいけないの。
そんなこと言っちゃったら、築きあげた文学世界が瓦解しちゃうでしょ。
芸術は人を救済しません。
救済にしろ何とか主義にしろ、目的を持った芸術は、その瞬間に芸術ではなくなり、一種のプロパガンダに陥ります
人を救済するのは金や食物です。
精神を救済するのは、精神科医です。
芸術は常に無用なものでなければなりません。
世の中に何の役にも立たないけれど、人を楽しませたり、驚かせたりできるもの。
それが芸術でしょう。
芸術家を自称する人は、オナニストが自慰によって精液を垂れ流すように、社会の片隅でひっそりと、己のいかれた頭から生み出る作品を垂れ流す他ありますまい。
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