2012-01-26

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社会・政治

変な事件が起こりましたねぇ。 犬が見知らぬ男に蹴られ、飼い主が怒って男を突き飛ばしたところ、男は頭を強打して死亡したそうです。 男71歳、飼い主64歳、いい年じゃありませんか。 それにしても、飛びかかってきたわけでもないのに、なんで犬を蹴っちゃったんでしょうね。 まずそれが不思議。 で、死ぬほど強く突き飛ばした飼い主、これも不思議。 不思議な人と不思議な人が、不幸な出会いをしちゃったということでしょうか。 お話に現れる犬というと、「フランダースの犬」とか「忠犬ハチ公」とか「南極物語」とか、割合人間によくなついて、人間に親和性を持ったものが多いような気がします。 これが狼になると、「赤ずきん」とか、急に怖ろしい怪物として描かれるのだから不思議なものです。 あ、そういえば、井上ひさしの「ドン松五郎の生活」という異色の物語もありました。 人間の言葉を理解し、ワープロで人間と会話する犬のドン松五郎が起こす大騒動です。 でも基本的に、犬は人間に従順ですね。 一方猫といえば、なんといっても「吾輩は猫である」でしょうねぇ。 勝手気まま、自分は人に飼われているなどとちっとも思わず、むしろ自分の家に勝手...
文学

文学と悪

昨夜、ジョルジュ・バタイユの「文学と悪」を読みました。 この作者にしてはわりあい分かりやすかったですね。 ブロンテ、ボードレール、ミシュレ、ブレイク、サド、プルースト、カフカ、ジュネの8人の作家を論じてエキサイティングです。 文学における悪とは何か、を追究します。 それは善を善として認めたうえで悪を志向しようとする嗜好、それは行動に対する文学の態度、神に対する悪魔の態度、大人に対する子供の態度としても捉えられる、とバタイユは論を進めます。 それには善悪を分ける倫理観が生まれていなければなりませんが、はるか古代、善悪が明瞭に分かれておらず、しかし本能的にこれは悪だというイメージだけがあった時、悪は強烈な魅力を放っていたと想像します。 「行動=神=大人」を断念することによって可能となる生き方・在り方、それが完全に正当化されることは、原理的には、生きているうちにはありえないことですが、正当化されえない生を自覚して生きること、これが文学における悪だと言うのです。 そうすると、大抵の文学者は子ども=悪で在り続けることになりますね。 これはかなりしんどいことです。 人間は自然に成長していくものです...
思想・学問

与える

東日本大震災以降、盛んに目にし、耳にするようになった言説に、勇気を与えたいだとか希望を与えたいだとかいう物言いがあります。 私はこれらの言い方に、非常に強い違和感を覚えます。 よく時代劇なんかで軍事力も財力も無い腐れ公家なんかが、権威だけを頼りに、「官位を与える」なんて言ってますね。 与えるという言葉は、上の者が下の者に何事かを恵んでやる、というニュアンスがあります。 しかるに、スポーツ選手が「試合で努力する姿を見せて勇気を与えたい」だとか、芸能人が「芸で希望を与えたい」だとか、ボランティアが「絆を与えたい」だとか言っているのは、大傲慢というべきものです。 某ボクシング選手などは、「勇気を与えれるようにしたい」などと発言して、言葉の誤用に加えてらを抜き、滑稽味を加える芸の細かさです。 それを言うなら、「希望を持ってほしい」とか言うべきでしょう。 言葉は変化していくものではありますが、意味があまりにも変ってしまっては、意思の疎通が困難になります。 こだわる、という言葉も年配者と若者の間では逆の使い方をしていますね。 本来の意味は、ある物事に執着してうじうじする、というような、悪いイメージ...
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