2021-05

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文学

心の底をたたいてみると

今週も月曜日を迎え、辛い一週間が始まりました。 誰でもそうでしょうが、自己が認識する自分と、他者が認識する自分には、ずいぶんと差があるものです。 私もそうで、日ごろから仕事をとてつもない困難な事業と感じ、終始必死の思いで仕事に向かっているのですが、上司からは、よく「易々とこなしているように見える」と評されます。 それは私が精一杯虚勢を張って、格好をつけているだけの話で、仕事中、心の底は苦痛と悲しみで満ちています。のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。 夏目漱石の名言です。 どんなに生き生きとして元気そうに見える人でも、心の奥底には、悲しさを隠しているということでしょうか。 悲しみが人間の本性だとしたら、人生は苦痛に満ちていることになります。 しかし誰でも、生きていてよかった、最高に幸せだ、と思うことが、一瞬にせよあると思います。 この一瞬を求めて、悲しい音を隠しながら生きているのが凡人というものではないでしょうか。  私もそんな凡人の一人です。 心の底はひた隠し、今日も虚勢を張って生きています。 そうしなければ、職場に行くということ自体が耐えられないのです...
その他

コロナじゃない

だるさが続いていましたが、昨日、今日とたっぷり休んだおかげで、大分良くなりました。 やっぱり寝るのが一番のようです。 コロナを疑いましたが、幸い発熱もなく、咳もでず、味覚、嗅覚の障害もありません。 これなら心配ないでしょう。 ただ、胃の調子が悪く、朝、卵かけご飯を食べたら、戻してしまいました。 胃薬を飲んで、お昼は軽くざるそばにしたら、胃の調子もよくなりました。 現代医学は偉大です。
その他

だるい

あまりにもだるくて、今日は急遽午後休暇を取りました。 コロナ禍の現在、下手に風邪もひけません。 熱がでたなんて言ったら、職場は出勤停止を命じるでしょう。 幸い、だるいだけで熱もありませんし、咳もでません。 単に疲れているだけなら、休めば良くなるだろうと思って。 このだるさ、昨日から続いています。 何事もなければ良いのですが。 だるいと言えば、入籍して1年7か月ほど、公務員宿舎で暮らしました。 築40年の古くてぼろい住まいです。 ただ、家賃は格安というか、ほとんど無料みたいなものでした。 6畳一間に4畳半が二間、それに3畳ほどのキッチンと、狭いながら風呂もあって、家賃は驚愕の5千円。 駐車場が千円。 世間の人が聞いたら事故物件としか思えない安さです。 なるほど、給料の安い公務員には、こういう特典があるのだなぁと変に感心したことを覚えています。 時折、赤坂あたりの公務員宿舎や議員宿舎が安すぎると、週刊誌に叩かれますが、本当にそうなんでしょうね。 千葉の狭くてぼろい住まいほど安くはないのでしょうけれど。  しかし、ここで私はシックハウスというべき症状に見舞われました。 いつも微熱があって、だ...
その他

頭重感

昨夜は素面で床につき、たっぷり8時間眠ったというのに、午前中、眠くて仕方ありませんでした。 職場でうとうとする始末。 こんな日は思い切って休めばよいのでしょうが、熱があるわけでもなく、頭痛がするわけでもなく、単に頭が重いだけでは休む気になれません。 考えてみれば、今日は木曜日。 週の後半に入って、疲れが蓄積するころです。 その疲れですかねぇ。 たっぷり寝ても疲れがとれないなんていうことは、前はありませんでした。 二日酔いの時は別ですが。 そういえば10年前、42歳の時に、勤続20年ということで銀杯をもらったのですが、銀杯を授与してくれた上司が、おかしげなことを言いました。 曰く、「40歳を超えると疲れやすくなるから、無理せず仕事をしてください」というもの。 当時の私は、とくだん疲れやすくなったという自覚がありませんでしたので、不思議なことを言うなぁと思いました。 その上司は当時55歳くらいだったでしょうか。 この人は15年も疲れやすい体に鞭打って働いてきたのかという、奇妙な感慨に囚われたことを思い出します。 で、現在。 なるほど、疲れやすくなりました。 頭が重くてぼうっとするとか、疲れ...
思想・学問

嘆きの週あたま

月曜日、これからの一週間を思うと、気が重くなります。 電車通勤をしていた頃、電車に揺られながらよく読んだ夕刊紙に、毎週「嘆きの週あたま」という記事が連載されていました。 サラリーマンなら誰もが、月曜日を嘆いているのでしょうね。 月曜日を嘆くその理由の奥深くをのぞき込むと、私は私が何者でも無いと感じてぞっとします。 世間的には事務職の小役人ということになるのでしょうが、私の心のなかでは、そういう肩書には違和感を覚えます。 30年近く小役人をやっているにも関わらず。 では月曜日を嘆いている私は何者でしょうね。 私は何者か、という疑問を敷衍すれば、人間とは何者だ、という疑問が湧き上がってくるのは当然の仕儀と言えましょう。 ソクラテスは「人間とは自己を追求する存在だ」と言い、カントは「人間とは共同体のなかで善を追求する存在だ」としました。 また、私の亡き祖母は、「人間は褒められたくて生きている」と言いました。 どれもあたっていると思います。 そのような考え方は、いずれも「人間は~だ」という風に語られますが、20世紀にいたって、人間は何者でもなく、何者かになるのだ、という考えが広まります。 善で...
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