最近、帰宅後、一杯やりながらユー・チューブで落語を楽しむことを恒例としています。
お気に入りは、故古今亭志ん朝師匠。
粋な江戸弁に、本格的な江戸落語が魅力です。
それに奇妙な色気があるのです。
当代の噺家では、柳家小三治師匠がお気に入りです。
本格的な江戸落語の正統的な後継者だと思います。
今朝、珍しく上方落語を楽しみました。
人間国宝の、桂米朝師匠の噺です。
さすがに人間国宝だけあって、達者な噺でした。
ただ、江戸落語に親しんでいる私には、違和感がありました。
江戸落語においては、噺家が使う道具は手ぬぐいと扇子のみ。
扇子は時にそばをすする箸になり、時に煙管になります。
一方、上方落語では講談に見られるような台が置かれ、台を叩いたりします。
さらに、宴会の場面ではいずこともなく笛や太鼓、三味線の音が流れてきて、落語にしてはずいぶん芝居がかっています。
江戸落語と上方落語と、どちらが優れているとは言えませんが、シンプルな江戸落語に慣れている私には、上方落語は演出過剰に感じました。
かつて東京の寄席では落語が一番人気で、上方においては落語よりも漫才のほうが人気があったと聞き及びます。
人間国宝の桂米朝師匠の落語が上方においてスタンダードだとすれば、余計なものをこそぎ落とし、シンプルな話芸を求めた江戸落語に軍配が上がるのは当然のことだと思います。
落語という世界に例を見ない一人芝居を保つのは、かくも珍妙な芸を保ち続けた日本人の義務だと言えましょう。