思想・学問

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男同士

男ばかりの社会では、男同士の強い絆が見られることが多いですね。 軍隊とか、運動部とか、ある種の会社とか。 ここで男同士は絆を強めるために相手のために自己を犠牲にしてもよい、とまで考えます。 例えば、軍歌「同期の桜」。 貴様と俺とは同期の桜  同じ兵学校の庭に咲く  咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国のため 貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 血肉分けたる仲ではないが  なぜか気が合うて別れられぬ 貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 仰いだ夕焼け南の空に 今だ還らぬ一番機 貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く  あれほど誓ったその日も待たず なぜに散ったか死んだのか 貴様と俺とは同期の桜  離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう 旧制高校の寮歌、「嗚呼、玉杯に花うけて」。 嗚呼(ああ)玉杯に花うけて 緑酒(りょくしゅ)に月の影宿(やど)し  治安の夢に耽(ふけ)りたる 栄華(えいが)の巷(ちまた)低く見て 向ケ岡(むこうがおか)にそそり立つ 五寮の健児(けんじ)意気高し どちらも男同士の世界を詠ったもので、そこには同性愛的な香りさえ漂い...
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台風

台風が日本列島に接近中とか。 千葉市も激しい雨が降り、風が吹いています。 台風が近づくとなんとなくわくわくするのはなぜでしょうね。 台風なんかでびくともしない、現代のマンションに住んでいるからでしょうか。 「サザエさん」なんかは台風が近づくとマスオさんや波平さんがドアや窓に木の板を打ち付けたりしていますが、もうあんなことをしている家はごくわずかでしょうねぇ。 窓はサッシになっちゃいましたからねぇ。 「古事記」によれば、風の神、志那都比古神(しなつひこのかみ)はイザナギ・イザナミの子どもで、風の神とされています。 風の神です。 風は神の息と考えられ、古くは神聖なものととらえられていたようですが、風害の頻発などから、邪悪なものと転じていったようです。 風は邪気を運ぶものであり、邪気は風に乗ってどんな小さな隙間にでも入り込み、疫病や風邪を流行らせました。 風は古来から怖れられていたのですね。 台風なんてその親分のようなものですから、怖ろしいに違いありません。 風神と聞いて誰もが思い浮かべるのが、俵屋宗達の「風神雷神図」でしょうねぇ。 下がそれです。 荒ぶる神々を、こんなに鮮やかに、美的に描き...
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我思う

体調がすぐれないせいか、仕事をしていても雑念が浮かびます。 昼休みにいたって、それはますますひどくなるようです。 雑念が次から次へと浮かび、手がお留守になるようでは、サラリーマン失格ですねぇ。 そういえば昔、デカルトという哲学者が、ありとあらゆる物の存在を疑い、疑いたおした末に疑いを思念しているおのれの存在だけは疑いえない、として、有名な、我思うゆえに我在りという言葉を残しました。 そうすると雑念に悩まされる私は、まさに在る、ということなのでしょうか。 しかしビアスの「悪魔の辞典」によれば、デカルトは言葉足らずで、正確には、我思うと我思う、故に我ありと我思う、とすべきだと記しています。これはなかなか示唆に富んだ指摘ではないかと思います。何もかもを疑いながらおのれの存在だけは確からしいと感じるのは不思議です。浄土真宗などでは、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できると説きますが、南無阿弥陀仏と唱えている自分の口は、自分が唱えているのではなく、衆生を救いたいと願う阿弥陀仏が、衆生の口に唱えさせているのだと言います。 ここに至って、南無阿弥陀仏と唱える行為さえ自力ではなしえず、阿弥陀仏の力=他力...
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王殺し

亡父の蔵書の中から、英国の人類学者、ジェームズ・フレイザーの大著、「金枝篇」を翻訳した「図説 金枝篇」が出てきました。 亡父の蔵書の森を彷徨うことは、まことに心慰む業です。 本来の「金枝篇」、フレイザーが40年もかけて書き上げた全13巻の大著らしいですが、あまりに大部なために一般に読まれず、それを気に病んだ著者が上下2巻にまとめ、読まれるようになったそうです。 亡父が持っていた講談社学術文庫版は、その要約版を翻訳したもののようです。 ぱらぱらとめくっていると、欧州のみならず広く世界中に王を殺す風習があったとの章が目に留まりました。 もともとギリシア神話に、森の王という者がいて、これは逃亡奴隷なのですが、森の王となりたい逃亡奴隷は今君臨する王を殺害してその座を奪わねばならず、森の王となった者は、折ってはならない金枝を折らなければならない、というお話があり、その神話の謎を解こうと、世界中の神話を調べ、想像力をたくましくして描いた著作だそうです。 世界に普遍的に見られる物語は、王の力は神聖にして強大だが、老いによる衰えは免れず、王の強大な力によって栄えている国家や部族も、王の老衰とともに衰え...
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呪の思想 神と人間との間

雨の休日。 先般実家から大量に貰い受けた亡父の蔵書など眺めています。 とりあえず、哲学者・梅原猛と漢文学者にして古代漢字の泰斗・白川静の対談集を読みました。 「呪の思想 神と人間との間」です。 白川静にかかると、漢字というのは大抵呪いから来ていることになるようです。 例えば道。 これは首と進むが一緒になってできた文字で、道というのは敵や生贄の生首を運ぶためのものであったろうと言います。 例えば邊。 これは鼻を上にした髑髏を載せる台このとだそうで。 現在もアマゾンやアフリカの原始的な暮らしをしている部族の小屋には、よく髑髏を並べるための台だ設置してあるんだとか。 魔除けですかねぇ。 梅原猛はそれに応え、わが国の縄文の文様もまた魔除けであったろうと言います。 とくに袖や襟からは魔が入ってきやすいから、袖や襟にとくに念入りに縄文の文様を入れたんだとか。 さらに白川静は、文字はともともと人と人との交流手段ではなく、神と人との交通手段であったはずだと言います。 人間は物が言えますが、神様は物を言わないので、文字を使った、と。 だからわが国の行政文書である木簡や竹簡などは、文字本来の使用方法が廃れ...
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