思想・学問

思想・学問

みんな

わが国は、十七条憲法の時代から、和をもって貴しとなしてきました。 誠にそれはそのとおり。日本国憲法にも、みんな仲良く、という趣旨のことが書かれています。 しかし、私は「みんな」という日本語が嫌いです。 「みんな」とは誰と誰のことなのか。 少なくとも、私は「みんな」という集団に所属したことはありません。 それと、「連帯責任」。古くは「一億総懺悔」。 結局「みんな」が悪いということで、裏を返せば誰も責任を感じない。 稟議制というのもそうです。ヒラからトップまでずらりと判子を並べ、「みんな」で決めたような感じにする。しかもその実、代理決裁とか言って、課長補佐クラスが課長・部長・局長と、一人でバンバン判子を押していたり。 しかし、某アメリカ人が、テレビで、「みんな」という感覚を持っていることが、日本の良さだ、と言っていました。アメリカ人は、おのれ大事の行き過ぎた個人主義で、日本がうらやましい、と。 「みんな」仲良いのは結構なことですが、「みんな」から外れると、いじめが発生しますね。「村八分」など、まさにそれです。 「みんな」と言う言葉のなかに、集団のためにおのれを捨てろ、という感じがこもってい...
思想・学問

怨霊

先日、武満徹がテレビで言っていました。 「絵を描く人は見えないものを見ようとし、作曲する人は聴こえないものを聴こうとする」 現実の奥にあるものを見ようとするのが芸術です。 現実を分析する学問とは似て非なるものですね。 私は日々、ありえない事件や出会いを妄想し、書き留めたりしています。 宗教はどうでしょうか。 神仏を信じるということはこの世ならぬものを見ようとし、そこから正しい生き方を学ぶものであると思います。 高校生のころ、国語の教師が、 「平安時代には、本当に妖怪や怨霊がいたんです」 と言っていたのが印象に残ります。 もちろん、それらが実在した、という意味ではありません。 それらの存在が信じられ、実在として当時の人々が感じていた、というほどの意味でしょう。 子が親を殺し、親が子を殺し、無差別殺人や大量虐殺が行われる現代、妖怪や怨霊が実在すると考えたほうが、人を倫理的にするのではないかと思ってしまいます。
思想・学問

ファシズム

連合赤軍事件の死刑囚、坂口弘の手記を読みました。 誠に怖ろしい事件です。 しかし、このような事件は、どこでも、いつでも起こりうる事件です。 私が、現代日本にファシズムを感じる動きに、二つあります。  一つには、戦前回帰ファシズムです。明治から終戦にいたる日本には、何も悪いことはなかった、日本は、核武装も辞さず、「普通の国」になるべきだ、という論調です。日本に悪がなかった、というのは、侵略を隠す欺瞞です。これが進めば、手段はともかく、新たな侵略を始めることでしょう。 二つには、反戦ファシズムです。戦争は絶対悪だから、これを認めてはならない、とする論調です。これは、損得や信念の妥協を求め、現実の戦争を回避する努力を無にし、なぜ人間は戦争を続けてきたのか、どうしたら戦争は回避できるのか、という思考を停止してしまう、怖ろしいスローガンです。 人間は、主に損得で動きます。損得の戦争は、御しやすいと言えましょう。 先の大戦でも、日本は米英の要求を飲んだら損をする、ということを主たる動機にして、戦争を始めました。ところが、緒戦の戦勝に酔い、後の敗戦に衝撃を受け、面子と大義を保つために不毛な戦争を続け...
思想・学問

解釈

日本国憲法の解釈を変更し、集団的自衛権を行使できるようにしよう、というニュースを見ました。これはまずいな、と思います。必要なら、憲法を改めるべきで、解釈をころころ変えるものではありません。そうでなければ、日本は法が支配する国ではなく、解釈が支配する国ということになります。極論すれば、どんな法律を作っても、時の権力者の解釈しだいで、なんでもあり、ということになってしまいます。 日本国憲法はいわゆる硬性憲法で、変更の手続きが極めて困難である、という欠陥を持っています。時代を半歩遅れてついて行く、というのが法律のあるべき姿ですから、改憲の際には、この欠陥も改めるべきでしょう。法を変えずに国が滅んだのでは、とんだ喜劇です。 日本国憲法については、戦後60年以上を経ても、神学論争のような不毛な議論が続いています。ここらですっきりさせたいものです。 日本は先の大戦で、幸いにも、本土決戦を回避しました。まだ理性が残っていたのですね。 しかし、村上龍は、「五分後の世界」で、本土決戦を決行し、その後地下に潜って戦い続けた場合の日本を描いています。ある雑誌で、この作家は多大な犠牲を出しても、本土決戦を行っ...
思想・学問

境界線

イタリアの哲学者、ジョルジュ・アガンベンは、「境界線を疑え」と言っています。「われわれ」と「彼ら」と言ってもいいでしょう。 健常者と精神病者、日本人と朝鮮人、白人と有色人種。 共同体を維持するためには、「われわれ」という括りを設けて、「彼ら」を作り出さなければいけません。あるいは、「彼ら」が在るから「われわれ」が在る、と言ったほうが適切かもしれません。   どこの国でも、外国人の入国には一定の制限がありますし、社会的弱者や異質な ものに対する差別があります。   私自身、精神病を発症し、差別的発言を受けたことがあります。そのとき、私は「彼ら」にされていたわけです。   しかし、社会的存在である人間は、必ず、境界線を設けてしまいます。そうでなければ、集団は維持できません。愛国心とか、母校愛とかいったものも、まさに境界線です。 これに対処する方法はあるでしょうか。おそらく、根本的方法は皆無でしょう。   そもそも言語というもの自体が、境界線を引くためのものです。あれとこれを分けるためのものです。月と星のように。   アガンベンは、境界線を引くために与えられた言語しか存在しない以上、その言語...