社会・政治

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鳩っち

鳩っちひきいる民主党は、政権奪取から八カ月、見るも無残な体たらくに陥っていますね。「国外、最低でも県外」とあれほど言っていたのに、結局辺野古原案に限りなく近いところで落とそうとするのですね。もともと日本・米国。沖縄で合意していたこと。それをことさらに騒ぎ立て、あっちに行ったりこっちに行ったり。迷走の果ては、予想どおりでした。 霞が関にうん兆円の埋蔵金があって、7兆や8兆、すぐに出てくる、と言っていましたね。しかし事業仕分けでは1兆が精一杯。財源をどうするかは、何も言いません。世の中の役人や天下り役人は馬鹿ではありません。そう簡単にしっぽを捕まえられると思ったら、大間違いです。 ことここにいたって、鳩っちが続けても、参議院選挙には勝てますまい。言うことがころころ変わる総理では、怒りを通り越して、笑ってしまいます。 引き際を考える時期に来ているのではないでしょうか?
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ブルシット

昨日の新聞で、ブルシット、という概念が紹介されていました。直訳すると、牛の糞。転じて、たわ言というほどの意味だそうです。 アメリカの哲学者ハリー・フランクファートという人の論文に、ブルシットは嘘よりも真理にとって脅威である、と書いています。 嘘は、それが嘘であるという自覚がなければつけません。つまり、真理を知っているか、知ろうとしている者にのみ、嘘はつけるのです。 しかし、ブルシットは、真理に無関心な者が吐く言葉です。意味内容を吟味することなく、好き放題の言いっぱなし。したがってブルシットは、真理にとって強力な敵となるのです。 そしてこの新聞記事では、鳩山総理が弄している言辞は、このブルシットにあたる、と断じています。言うことが朝と夕で変わったり、命を守りたい、とか国会で演説しておきながら、安全保障の勉強をして、やっと沖縄の米軍が重要なことがわかった、と言ってみたり。 要するに、真理を知ろうとする意欲、真理に基づいた言葉がないのです。国民の歓心を買おうという欲望にとりつかれ、ブルシットを吐き続けるのです。それがいかに国政を混乱させる愚行であるか考えもせずに。 鳩山総理には、退陣しか道は...
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第2弾

またもや事業仕分けなる政治ショーもしくは集票活動が行われましたね。 事業仕分けというのは、じつは各省庁で何十年も継続して行われています。その事業が必要か、予算に無駄はないか。国の機関は常に会計検査院やかつての行政監察庁(今の総務省)から、厳しくその存在意義を問われ続けています。 私は十数年前、お茶の水女子大学で契約事務を担当していましたが、その頃から、現代において国が女子大学を運営する必要性を、再三再四、文部科学省から問われ続けました。 確かに、昔と違って、女性でもかつて男子校であった幾多の名門大学に入ることができますし、その研究教育の内容はすぐ近くに在る東京大学に比較もできません。しかしそれでも、文部科学省は当大学の存在意義を十年以上にわたって問い続け、廃止することはありません。廃止したら、すべてが途切れてしまうからでしょう。 たとえば農林水産省が所管する農業者大学校が、廃止と仕分けされました。わずか30分 で。それはなぜか。他に似たような教育施設があるからだそうです。 それならば、日本には総合大学が一つあればよいことになります。多くの大学は、似たような事業をやっています。似たような...
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やれやれ

今日の産経新聞の一面トップは「普天間を継続使用 移設は困難 米、判断固める」というものでした。 麻生前首相が懸念したことが現実になろうとしています。 日本国政府・米国政府・地元住民が一度は合意した辺野古への移設を、宇宙人総理は、なぜ駄目なのか説明せぬまま、一方的に見直すと宣言し、半年たったらこの体たらく。 十分予想できる事態ではありました。 しかし宇宙人総理は、不敵な笑みを浮かべて、「腹案がある」だの「五月中に決着する」だの「国外最低でも県外」と話し続け、ついには米国の怒りを買って、普天間そのままか、自民党政府が進めた辺野古移設か、どちらかしか実現不可能というべき事態を招いたのでした。 嗤うべし。 ここは細川元総理を真似て、「よきにはからえ」と言って退陣するしか選択肢はありますまい。 このごに及んでなお、米国を説得できる案など、魔法でも使わないかぎり不可能でしょう。
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馬鹿馬鹿しい

今、NHKの番組で、選択的夫婦別姓についての問題を取り上げています。 誠に馬鹿馬鹿しい。 姓など、単なる記号に過ぎません。 夫婦が同じ姓を名乗ろうが、別の姓を名乗ろうが、どうでも良いことです。どちらかを強制する、その強制が間違いです。 夫婦別姓に反対する人は、まるで、日本人全員が夫婦別姓になるかのような言い方をします。大きな間違いです。ことは、「選択的」なのです。それぞれの夫婦が、選べるのです。 そして、私の推測では、多くの夫婦が同姓を選択します。なぜなら、日本人は「みんな一緒」が大好きだからです。別姓を選ぶ人は、むしろ少数派として、差別にあう可能性が高いでしょう。それが子供に及ぶのは哀れである、という考えはもっともですが、それも社会のあり方の問題、というより数の問題でしょう。別姓が増えれば、今度は夫婦同姓の子供が、変な家、といって差別されるでしょう。 夫婦同姓は、人間の家族文化の普遍的な価値ではありません。むしろ、近世以前の日本においては、庶民の多くが、姓などもっていなかったのです。それを、夫婦同姓は日本古来の文化のように錯覚するのは、愚かというより馬鹿馬鹿しいことです。 そもそも皇...
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