「無明の井」 ー脳死をめぐる新作能ー

思想・学問

 私は保険証の裏に、死して後、臓器は一切提供しない旨の意思表示をしています。

 あの世とやらが不明である以上、死して後、臓器が無くて困るということがあってはいけませんから。

 
免疫学者にして文筆家でもあった東京大学の多田富雄名誉教授は、脳死を題材とした新作能を残しました。

 
 題して、無明の井」


 脳死状態に陥った男が、その意に反して心臓を摘出され、ある女に移植される話です。
 この能では、男ばかりか、生きながらえた女もまた、他人の心臓を得て生き残ったことに深く苦しみます。

 ある旅の僧が、仮寝をした涸れ井戸の側で、土地の者からある昔話を聞きます。

 嵐で瀕死の状態となった漁師の男の心臓が、命の尽きかけた娘に移植され、彼女は生き永らえ、男はそのまま死んでしまいます。

 娘は人の心臓を取って生き永らえたことを罪と感じ、懺悔の一生を送ったというのです。

 この話を聞いた僧が二人のために祈っていると、心臓を取られた男と移植を受けた女の亡魂が現れます。
 自らの屍を求めて彷徨っている男は、心臓が取られるさまを再現します。

 魂は黄泉路(よみじ)をさまよひて、命(めい)はわづかに残りしを、医師ら語らひ、氷の刃、鉄(くろがね)の鋏を鳴らし、胸を割き、臓を採る。恐ろしやその声を、耳には聞けども、身は縛られて、と。

 さらに続けて、われは生き人か、死に人か、と自問するのです

 ぞっとするような、壮絶な場面です。

 一度は生き永らえた女も、ともに業苦に沈むさまを見せつけます。

 そして二つの魂は、僧に供養を願って闇に消え失せるのです。

 脳死となればどうせ死んだも同然とばかり、生きられる可能性がある患者にその臓器を移植しようという理屈は分かります。

 現実的には、極めて真っ当な判断なのでしょう。

  しかし人の死というもの、我々生きている者にとっては全く不明の事態です。

 そのような不明の事態を前にして、その命が完全に尽きる前に、殺害におよんで他人の命を助けるということが、倫理感に照らして正しいとは、とても思えません。

 もちろん、脳死のドナーから臓器を移植することによって、元気になる患者にとっては、誠に喜ばしいことではありましょう。

 私自身、臓器移植でしか助からない病気に冒されたなら、一日千秋の思いでドナーの出現を待つでしょう。

 しかしそれは、全て生きている者の理屈。
 脳死状態の人には意志を述べることすらできません。

 ましてあの世がどうなっているかなど、世界中探しても答えられる人は存在しないでしょう。

 そういった脳死にまつわる死生観の問題を、「無明の井」は鋭く投げかけ、観る者を困惑させます。

 医者には医者の正義と理屈があり、ドナーを待つ患者には切ないばかりの生への執着があります。
 それを否定する気はありません。

 しかし私は、一個の生命体を構成する臓器を、まるで機械の部品のように移植するという考え方が、どうしても納得できないのです。

 生命体はそれ自体で自己完結しているはずです。

 人それぞれ体質があり、病気になりやすい人もいればそうではない人もいます。

 ことは健康問題にかかわらず、その精神、霊性、能力など、ありとあらゆる力が、おぎゃあと生まれた瞬間からその人に付いて回り、ついには早死にや長寿など、人の寿命をも左右します。

 病に苦しむ人々には酷かもしれませんが、私はそれぞれの人が背負った体質や精神、霊性などを甘受すべきものと思っています。

 そのため、私はどうしても脳死を人の死と認めることが出来ないでいます。

 限りなく可能性は低くても、脳死の人が健康を取り戻す可能性は否定できますまい。
 それなのに殺害に及び、機械の部品のように臓器を取り出されたのでは、死者は浮かばれません。

 私のような考えは現代医学から見れば馬鹿げた時代錯誤に思えることは承知しています。

 しかし、一種の信仰のような思いで、私は脳死を人の死と認めることも、臓器移植も認められないのです。

 それは言わば神の領域とも言うべきで、人間がそれを成すことは、あまりに傲慢に思えて仕方ありません。

能の見える風景
多田 富雄
藤原書店