思想の左右や穏便・極端を問わず、現代日本社会を批判するときに、よく使われるのが、見せかけの豊かさに騙されるな、という言説です。
昔に比べておいしい物がたくさん食べられることや、住環境が住みやすくなったこと、車や家電、パソコンなどに囲まれ、生活が便利なことを指して、見せかけの豊かさという表現を使うことが多いようです。
しかしこれはずいぶんと傲慢な言い方です。
自分は豊かだ、と思っている人に、お前は本当は豊かではない、と言っているようなものです。
余計なお世話。
豊かさを感じるための指標としては、まず健康、収入、円満な家族、そして自由になる時間、それとその時間を有意義に過ごすための趣味など。
これらが満足すれば、それは豊かな生活と言えるでしょう。
それ以上に大切な何かがある、というような物言いをする人がいたら、眉つばだと思っていいでしょう。
大切な何か、というのは、神社の奥に鎮座ましましている石ころだったり、薄汚い鏡だったり、要するに糞の役にも立たないけどある共同体でこれはご神体、と定めて、別に信じちゃいないけど、習慣だから拝むのさ、という風に扱われている物体と同じようなものでしょう。
大切な何か、というのは、神道のご神体のごときもので、わが国の伝統に則った言い方で、役には立たないけどとりあえず有りがたいもの、というほどの意味だと考えられます。
枕詞のような、特に意味のない慣用表現です。
これが一神教の国では、大切な何か、ではなく、大切なのは、主だったり、アッラーだったりするわけで、何か、という曖昧さは許されません。
見せかけの豊かさにしても、大切な何かにしても、迷惑なのはそういう言葉に惑わされて生活の基盤を築こうとせず、無為徒食の徒となって、自分探しの貧乏旅行なんか始めちゃうやつが出現することです。
また、突如脱サラして大借金の末、無農薬野菜なんぞを作って儲けようなんて浅はかな考えを起こし、当然売り物になるような野菜など作れるはずもなく、一家は路頭に迷い、見せかけの豊かさがありさえすれば十分幸せなんだと気付いた時はすでに遅く、一家心中せざるを得なくなり、その時初めて大切な何か、なんていうものはどこにも存在せず、大切なのは生命や収入なんだと気づくわけです。
私の記憶では、戦後高度成長期に、公害やモーレツサラリーマンが問題になった頃、こういう言説が始まったように思います。
特に選挙などでは、野党の候補者がよく使っていました。
しかし今、20年にも及ぶ不況の中、こんな空虚な言葉で時代を語る愚は終わりにしなければなりません。
私たちは再び経済成長を目指し、見せかけの豊かさを賛美し、大切な何かというものは現世には存在しない、一種の宗教のようなものなんだと気づくべきでしょう。
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