私が住む街には、思いがけず雨が降りました。
このところ盛夏とは思えない涼しさで、しのぎやすいですね。
去年の猛暑が嘘のようです。
真夏、思いがけない冷たい雨が降ると、なにがなし、物思いに沈みます。
五月雨に 物思ひをれば 郭公 夜ふかくなきて いつちゆくらむ 紀友則
古今和歌集に見られる夏の歌です。
夏の雨の夜、物思いに沈んでいるとホトトギスが鳴いている、こんな夜中にどこへ行くのだろう、というほどの意かと思います。
おそらく、ホトトギスに自身を重ね合わせているのでしょうね。
真夏の夜のメランコリーといったところでしょうか。
真夏のメランコリーと言えば、
あの夏の 数かぎりなき そしてまた たった一つの 表情をせよ
という、34歳の若さで事故死した歌人、小野茂樹の歌を思い起こします。
過ぎていったひと夏の思い出を追慕したものでしょうか。
その夏は彼にとって神聖なものであり、また、残酷にも二度と戻らない、儚い夢でもあるのでしょう。
その夏を持てたことは、若くして逝った彼にとって幸せなことだったでしょうか。
それとも、生に執着する悪因縁となったでしょうか。
今となっては、誰にもわかりません。
夏は来ぬ 相模の海の南風に わが瞳燃ゆ わがこころ燃ゆ
こちらは、明治期に活躍した歌人、吉井勇の歌です。
あまりにストレートで暑苦しいこの歌は、私の好むところではありませんが、あんまりあけすけで、かえって嫌味がありませんね。
今で言うと、湘南乃風のような、ストレートで暑苦しいJーPOPにあたるのかもしれませんね。
いつの時代にも、暑苦しい歌を好む者がいるものです。
やまと歌は、人の心を種として、万(よろづ)の言の葉とぞなれりける。
有名な古今和歌集に見られる紀貫之の仮名序の冒頭部分です。
和歌は古く上代から興り、連綿と現代まで繋がっています。
その間には様々な文学史上の運動がありましたが、わが国文学の主役の座こそ散文に譲ったものの、今もなお、わが国語は最も詩歌に適した言語であると、世界の文学者、言語学者に知れ渡っています。
和歌といい俳句といい、これほど短い定型詩が、よくも豊かな文学世界を花開かせたものだと思います。
ただ悲しいのは、私自身が、散文的理性の世界に生きており、詩歌的感性の世界に疎いことです。
詩歌の才があれば、森羅万象を美しい言葉に乗せて歌うことができるでしょうに。
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