おはなし

文学

 私は幼いころから、おはなしに接することを、大きな喜びとしてきました。
 絵本を読み聞かせてもらうことに始まり、テレビの子ども向けアニメ、さらには漫画や児童文学、長じて文学や映画・舞台芸術など。
 あらゆる形態の物語に接して思うのは、物語は素朴さを失ってしまったのかな、ということです。
 神話や恋物語、怪談などは、浮世離れした、いわば面白いだけ、美しいだけのものでした。
 それが生きる苦悩や現実社会の矛盾をテーマにする物語が主流となり、むしろそういう物のほうが上等であるかのような風潮になりました。
 私は作り物めいたホラ話が好きなので、浮世離れしたお話しが復権すればいいのにな、と思います。

 古く、平安中期の「蜻蛉日記」に、次の一文が見えます。

 世の中におほかるものがたりのはしなどをみれば、世におほかるそらごとだにあり(後略)

 世の中で流行している物語を読むと、事実とは思えない絵空事ばかりだ、と嘆いています。
 ここから、著者は現実の結婚生活の困難、例えば夫の浮気やそれに伴う嫉妬、それに肉親との死別の悲しみなど、日記という形をとったリアリズムの私小説と読むことが可能かと思います。

 この日記文学が成立したのは紀元945年頃と推測されますから、その頃には早くもおとぎ話ではない、リアリズムを求める精神が、日本人に発生していたということでしょうか。
 そして1000年頃に「源氏物語」が成立します。
 「源氏物語」には浮気や誘拐や強姦や左遷などが書き連ねられていますから、「蜻蛉日記」の批判に耐えうる文学が誕生したということでしょう。
 シェイクスピアが活躍したのが1500年代の後半から1600年代の初頭にかけてですから、ずいぶん早いですね。

 さらに1050年頃、「更級日記」が成立します。
 「更級日記」には「源氏物語」に夢中になる少女の心情が素直に書かれています。

 はしるはしる、わづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人もまじらず、几帳の内にうち臥してひき出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ。

 走るように心が急きながら、断片しか読んだことのなかった源氏を、最初から、誰にも会わずに夢中で読んでいると、后の位もいらないと思う、というほどの意でしょうか。

 才気ばしった少女にとって、すでに貴族の間で知れ渡っていた「源氏物語」を読むことは、今でいえば「ワン・ピース」という大ベストセラー漫画を見るようなものだったことでしょう(ちなみに私は「ワン・ピース」を読んだことがない、と言ったら、若い後輩に「非国民ですよ」と言われました)。

 識字率が向上した江戸時代には、滝沢馬琴や井原西鶴などの戯作者が活躍し、庶民も広く戯作や歌舞伎、落語などのフィクションの世界を楽しむようになりました。

 人が物語を求めることは、ほとんど本能であるかのごとくです。

 そういえば昔、私が中学生の頃、10も年の離れた弟に、口から出まかせの物語を語って聞かせたことを思い出します。
 弟の反応を見ながら、声色をつかったり、話を飛躍させたりして、弟を楽しませたものです。
 私自身、小学生の頃、上京して近くに住んでいた大学生の従兄におはなしをせがんだものでした。

 できるだけ長生きして、物語の進化あるいは変化を見続けたいものです。

蜻蛉日記 (岩波文庫)
藤原道綱母,今西 祐一郎
岩波書店
更級日記 (岩波文庫)
西下 経一
岩波書店

 

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