お暇

文学

 今朝、お盆の迎えに行ってきました。
 先般亡くなった義父は49日がまだなので、お骨は同居人の実家にあり、今頃は中有の闇を彷徨っているでしょうから、義父の迎えではなく、はるか昔に亡くなった同居人の家族の迎え。

 例年ですと義父母夫婦二人だけで行くところ、今年は結婚以来初めて私と同居人と義母で行きました。

 実父が亡くなったときもそうでしたが、人間なんて呆気ないものだと実感します。
 ほんの80年ほど、人の世を渡り歩いて、あの世に行ってしまうのですから。

 そう思うと、自身が死ぬときのことを想像せずにはいられません。
 いくつまで生きるのか、どうやって死ぬのか。

 いずれにしろ、あと30年ばかりの寿命でしょう。

 その間にどんなことが起こるのか。

 今まで時の流れに身を任せて、ふらふらと生きてきた私ゆえ、これからもそうなんでしょうね。

 せめてもの救いは、平和な時代に生まれ、平和を当たり前のこととして生きていること。

 殺し合いなんて愚かなことに明け暮れる時代に生まれなくて本当に良かったと思います。

 この平和が維持せられることを強く望みます。

  この世をば どりゃお暇(いとま)に 線香の 煙とともに 灰(はい)左様なら

 江戸の戯作者、十返舎一九の辞世です。

 私もこの戯作者のように、軽みのなかでお暇したいと願っています。

 今までに亡くなった全ての人の冥福を祈ります。

 合掌。