以前、このブログで神聖かまってちゃんというイカレタ、しかしなかなか素敵な歌を披露するバンドを紹介しました。
近頃の韓国をみて、上の歌を想起しました。
![]() | 楽しいね |
ワーナーミュージック・ジャパン | |
ワーナーミュージック・ジャパン |
サッカー日韓戦で、わが国を誹謗中傷するような政治的横断幕を掲げたり、竹島に今にもわが国の軍隊が攻めてくるとでもいうような不安を煽ったり、韓国はまるで日本が大好きでかまってほしいかのごとくです。
ぶぅぶぅ文句を言いながらじつはかまって欲しくて仕方が無い神聖かまってちゃんの歌を思い起こさざるを得ません。
隣国で、しかも両国とも漢字や儒教などの中華文明から強い影響を受けた同じ北東アジアの国なのに、その国民性は大きく異なります。
よく、韓国の文化を称して、恨の文化、と言われます。
某日本人学者は、伝統規範からみて責任を他者に押し付けられない状況のもとで、階層型秩序で下位に置かれた不満の累積とその解消願望、と説明しています。
![]() | 恨の文化論―韓国人の心の底にあるもの (1978年) (イ・オリョン文化論シリーズ〈1〉) |
裴 康煥 | |
学生社 |
一見、ニーチェが言う、ルサンチマンに似ているようにも感じます。
ルサンチマンとは、被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいることで、この心理のうえに成り立つのが愛とか同情といった道徳であり、しかも怨恨でもある、と言われます。
![]() | 道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学 (河出文庫) |
永井 均 | |
河出書房新社 |
![]() | ニーチェ道をひらく言葉 (智恵の贈り物) |
野田 恭子 | |
イースト・プレス |
しかし、韓国を見ていて思うのは、恨というのはルサンチマンほど明白な概念ではないのではないかということ。
韓国は古くは中国に朝貢し、その保護の下に発展しました。
近代においてはわが国に併合され、わが国への同化を強制されました。
戦後南北に分かれて独立を果たしますが、それは韓国人自らが勝ちとったものではなく、米国を始めとする連合国がわが国を打ち負かしたために得られた偶然の産物のようなもの。
つまり彼の国は有史以来、一度も自力で自存自立の国として立ったことがなく、その哀しい歴史が、上下関係への不満という意味だけではなく、悲哀や怨恨、自己憐憫、他者(特に日本)への強い対抗意識などが混然一体となって、非常に複雑な感情に支えられた負のパワーを生ぜしめ、恨の文化を支えているように感じます。
一方わが国には、和ということを大事にし、恨みがあっても水に流すとか、戦いが終われば敵も供養する敵味方供養とか、恨みを持続することを良しとしない文化が存在します。
また、武士道などの高い道徳律や、花鳥風月などの自然を愛でる優雅さを持っています。
このことは、この国に生まれた全ての人にとって、誠に幸福なことです。
私にも何人か韓国人の知り合いがいますが、彼らはみな礼儀正しく、紳士的で、むやみにわが国を責めるようなことは決して口にしません。
それは何も彼らが希望して日本に居住しているからというだけではなく、もともと韓国人1人1人が、おそらくは礼儀正しくて紳士的なのだろうと想像します。
ただし、それが国家としてのアイデンティティに関わる問題になると、身にしみついた恨の文化が頭をもたげ、マスコミや政治家が過剰に大騒ぎし、なんでもかんでも日本が悪い、と言いだすのでしょう。
問題を単純化するのは楽ですから。
そうなってしまってはもはや話し合いの余地はありません。
大人の社会では、感情的になった時点で、もう負けです。
常に冷静に、Yes but、という態度を貫かなければ、馬鹿にされるだけです。
したがって、先祖がえりのように中国へ接近し、信じられないような屁理屈でわが国を責めている間は、一切相手にせず、無視し続けるしかないでしょう。
現に安倍政権は、無理に韓国との首脳会談を求めない、と明言しています。
それでよろしかろうと思います。
わがままな幼児のようなかまってちゃんは、放っておくしかないのです。
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