からっぽ

文学

 おそらく日本文学史上、最もシニカルで、それでいて耽美主義的で、擬古典的な、矛盾する要素をたくさん持ちながら、完成度の高い文学作品を書き続けた作家は、三島由紀夫をおいて他にはおりますまい。

 私は学生時代、多くの古典を大学の要請により読みましたが、当時最も心酔していたのは、三島由紀夫石川淳渋澤龍彦でした。

 なかでも政治的発言が多く、最後は自衛官にクーデターを起こすよう決起を促し、割腹して果てるというその生き様死に様は、良くも悪くも私の精神形成に大きな影響を与えました。

 彼は自決の四か月前、ある雑誌に日本の未来を予言する寄稿を寄せています。

 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらうそれでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。

 三島由紀夫
の自決から42年、現在のわが国は彼の予言どおりになったでしょうか。

 今のわが国は無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国と言えるでしょうか。

 私はそうは思っていません。
 彼が自決した1970年とは時代背景がずいぶん変りました。
 いわゆる社会主義者はほぼ絶滅し、健全な保守主義が台頭してきています。
 しかしここまで来るのに60年以上かかってしまいました。

 三島由紀夫は日本民族が本来的に持っている底力を過小評価していたとしか思えません。
 戦後25年くらいの頃合いでは、とても彼が夢見たような美しい日本を取り戻すことは不可能で、エコノミック・アニマルと呼ばれても、力を蓄える時期だったのだろうと思います。

 短気を起こして義憤に駆られ、腹を切るとは正気の沙汰ではありません。
 作品の完成度はすぐれて高いのに、小説家や芸術家が政治に頭を突っ込むと、碌な事はありません。
 おのれの勝手なロマンチシズムに陶酔し、政治を玩具にしてしまうのです。

 思えばヒトラーも、画家や建築家を志した芸術家でした。
 芸術家というもの、作品の制作にあたっては恐るべき緻密さと粘り強さを見せるのに、政治の話になると急に性急な変化を望むようです。

 しかし現実の政治には時間がかかります。
 原案を作って、会議にかけて、反対する会派と話し合って、落とし所を探る。
 民主主義社会というのは怖ろしく意思決定に時間がかかります。
 それがテロリストやロマンチストには我慢ならず、ついつい、独裁者の登場を待望してしまうのでしょう。

 その心性は、私には痛いほど分かります。
 私自身の中に、三島由紀夫的な気の短さが存在しているのだろうと思います。

 しかしそこはぐっと我慢して、小さな職場で会議を重ね、合議によって意思決定をしていくという死ぬほど面倒くさい仕事を続けなければならないのです。

 三島由紀夫は、おそらく日本精神に殉じるという気持ちは無かったのだのではないかと思います。

 生来のマゾヒスティックな欲望と、政治的ロマンチシズムを満たすために最も効果的なのが、クーデターを訴えて失敗して自決する、というストーリーだったのでしょう。
 それは苛烈な決断であったろうと思います。

 私はそんな彼を羨ましいと思いながら、淡々とシニカルに日を過ごす他ありません。

 過激政治団体でも新興宗教でも、なんでもいいから仮に魔術的思考をもった団体に所属し、おのれの精神を殺し、団体のために命を投げ出すという身勝手なヒロイズムに惹かれる私を押しとどめることは難儀です。

 でも結局、そんな勇気はなく、平凡なサラリーマンとして一生を終えるのでしょうねぇ。
 なんとも退屈で面倒くさい話です。

 
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