「馬小屋」を見ておもったのですが、人が他人を自在に操るというのは、非常な快感らしいですね。
そのために出世や権力の掌握を望むのでしょうから、人というものはどこまでも下品にできています。
また一方、生身の男や女との付き合いは面倒とばかり、二次元の世界に逃避したまま現実に帰ってこられなくなった輩もいるやに聞きます。
ダッチワイフというのも生身の女の代わりに女の人形を抱くもので、近頃では極めて精巧な人形が出回り、人形を抱えて車に乗る男をあるご婦人が目撃して、死体を運んでいると勘違いして警察に通報した、という笑えない話があります。
これなどはダッチワイフに人格を与えて恋しているといってよいでしょう。
はるか昔、西行法師が高野山での修行の最中、人恋しくてたまらず、死体を集めて人間を作る秘術を行った、という話が「撰集抄」に掲載されています。
この書物は西行法師の著作という触れ込みの贋作ですが、なかなか面白い本です。
人の姿には似侍りしかども、色も悪く、すべて心もなく無く侍りき。
声は有れど絃管声のごとし。
げにも人は心がありてこそは、声はとにもかくにもつかはるれ。
ただ声の出るべき計ごとばかりをしたれば、吹き損じたる笛のごとし。
西行法師、失敗作を作っちゃったんですね。
そうはいっても声まで出るのだから、寂しさを紛らわす友としたのかと思えば、さにあらず。
さても是をば何とかすべき。
破らんとすれば、殺業にやならん。
心の無ければ、ただ草木と同じかるべし。
思へば人の姿なり。
しかし破れざらんにはと思ひて、高野の奥に、人も通はぬ所に置きぬ。
殺すと殺人になっちゃうからと言い訳をつけて、人も通らない場所に捨てちゃったんですねぇ。
西行さん、やるぅ。
命というものは、科学技術が進歩しても思うに任せないもの。
いつどこで落命するかもしれず、あるいは世界一のご長寿を達成できるかもしれず。
ころっと死ねるか、長く苦しむか、自分のことなのに、絶対に判らないようにできています。
だからこそ、この話や、フランケンシュタインや、鉄腕アトムやらの、人間の技術で制御できそうな人造人間や人型ロボットを作るお話しが人気を博すのでしょうねぇ。
幼い子どもは人形やぬいぐるみに名前をつけて、本当に生きているかのように可愛がりますね。
私は幼児の頃、掌にすっぽりと収まる、卵型の美しい石を拾ってきて、このような美しい物体にたましいがないはずがない、と信じ、名前をつけて可愛がりました。
その直感は正しかったと、今でも思っています。
あの石は人間でいえば昏睡状態のような生を生きていたことでしょう。
石のあまりに長い一生を思えば、子どもにいじられることなど一瞬の夢に違いありません。
きっと私の実家の庭か、その周辺で、今も昏睡のような生を楽しんでいることでしょう。
![]() | 撰集抄 (岩波文庫) |
西尾 光一 | |
岩波書店 |