ここの港に寄りもせず

文学

 何年前になりますか、浅草から水上バスに乗って東京湾を一周する春の休日を持ったことがあります。

 浅草の船着き場は当時、木材でできており、いつポキッといってもおかしくなさそうな、頼りなげな風情でした。

 そういえば浅草に観光客向けの人力車があんなに増えたのはいつの頃からでしょうね。
 30年前、私が子どもの頃はまったく見かけませんでした。
 それと、煮込み横丁。
 昼日中から酒を飲ませる店はいくらもありましたが、煮込み横丁のような、観光客でも外国人でも気楽に入れるお店なんてありませんでした。
 これも時の移ろいでしょうか。
 あるいは、わが国に外国人観光客が増えたのでしょうか。

 春白昼 ここの港に 寄りもせず 岬を過ぎて 行く船のあり 
                             若山 牧水

 一説には、三浦半島を詠んだ歌だと伝えられます。
 旅が好きで、沼津が気に入って移住したというくらいですから、三浦半島なんて目と鼻の先だったのでしょうね。

 牧水先生の歌を、うますぎる、とか、きれいすぎる、と言って嫌う向きもあるようですが、私は近代歌人の中では随一の歌よみだと思っています。

 旅人と言う者、常に自分はどこへ行ってしまうのか、という不安に駆られているものと想像します。
 特に行き先を定めないぶらぶら旅行であればなおさらです。
 牧水先生は港にも寄らずにどこへともなく進んでいく船に、おのれを仮託したのかもしれませんね。

 私が浅草から乗った水上バスは、ぐるっと回ってまた浅草に帰ってくるわけですから、行き先を心配する必要などさらさら無いわけですが、それでも、この船はどこに行くのかな、という一抹の不安がよぎりました。
 もっともそれが、船旅の醍醐味なのかもしれませんねぇ。

 遊覧船は何度も乗りましたが、船旅というのは、一度しか経験がありません。
 晴海埠頭から二泊三日で北海道の苫小牧まで行くのです。
 船酔いをして、ずいぶん長く感じましたねぇ。
 それと、大浴場というのがあったのですが、黒っぽくなったお湯を誤魔化すためか、バスクリンをしこたま放り込んであり、得も言われぬ気色の悪い色と臭気で、きれい好きの私が二日も風呂を我慢したほどでした。
 なるほど、海上では真水は貴重品なのだなと、気付きました。

 景気づけに酒でも飲もうかと思いましたが、相手をしてくれそうな妙齢の女性は見当たりませんでした。

船なりき 春の夜なりき 瀬戸なりき 旅の女と 酌みしさかづき 
                                若山 牧水

                
                                          
 牧水先生、船中でもよろしくやっていますねぇ。
 さすがは酒豪でならしただけのことはあります。

 私も船中でナンパでもしていれば、素敵な思い出になったでしょうが、船酔いでゲロはいてたんですよねぇ。

 がっくり。

若山牧水歌集 (岩波文庫)
伊藤 一彦
岩波書店

 

いざ行かむ、まだ見ぬ山へ―若山牧水の歌と人生
伊藤 一彦
鉱脈社

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