私の職場に、韓国に5年間留学し、かの地で出会った女性と結婚した後輩がいます。
奥様は来日し、日本で二人のお子様と家族仲良く暮らしています。
後輩、結婚に際しては、差別を心配していたようです。
韓国に住めば日本人ゆえの差別を、日本に住めば韓国出身者ゆえの差別を。
それは今のところ杞憂に終わっているようで、まずは良かった。
個人と個人の間では友情なり愛情なりが成立しても、集団となると差別が横行するのが人の世というもの。
まったく人の世は厄介なものです。
大日本帝國が朝鮮半島を支配していた大正時代、朝鮮半島で生まれ育った日本人の少年と、現地、朝鮮人の少女の恋を描いた小説に、「カンナニ」という佳作があります。
カンナニというのは朝鮮人少女の名前。
朝鮮ではよくある平凡な名前です。
朝鮮人貴族の家に住む巡査の子が12歳の龍二。
同じ屋敷に門番の子として住むのが14歳のカンナニ。
幼馴染の二人は、自然と、幼い恋に落ちていきます。
しかし、少年と少女の恋というだけで不埒とされた時代にあって、支配する民族とされる民族という関係性が、二人の間柄を複雑にします。
仲良くしても良いが、深入りしてはいけない。
初恋を止めようとする際の常套句。
これが日本人と朝鮮人とあっては、より深い意味を持つものと思われます。
龍二は小学校を卒業しようという年で、当時は義務教育ではなかった中学校への進学を目指します。
それに対し、カンナニは、
「中学校に行ったらいや、中学校に行くと朝鮮人をいじめる役になるから」
と言って進学をやめさせようとします。
二人は、別れの予感を覚えつつ、二人だけの場所を求めて、峠へと歩き出します。
いじめられないところ、二人だけでいつでも遊べるところ=ユートピア、を求めて。
しかし物語は、森林の中に迷い込み、不安に駆られた龍二が、カンナニの手を取り、必死で帰っていく姿を最後に、唐突に終わってしまいます。
「終わりの46枚分削除」とあります。
複雑な時代背景ゆえ、ラストは発表できなかったものと思われます。
今は最後の章を読むことができます。
三一運動(大正8年に起きた独立運動)でカンナニは命を落としたことが示唆されます。
それを知ってか知らずか、降りしきる雪の中、龍二が彼女を探す、という場面で終わります。
あざといラストで、少々白けます。
少女を少女のまま死なせてしまえば、彼女は少年にとって永遠の追慕の対象になるとともに、少年時代を終わらせてしまう作用を持つでしょう。
淡い恋は悲劇的な結末を迎えるわけですが、その悲劇は、支配する側とされる側の運命の隠喩になっていると思われます。
作者の湯浅克衛は朝鮮生まれの朝鮮育ちで、日本人ながら故郷と言えば戦前の朝鮮半島にしかなく、懐かしい場所であったでしょう。
その懐かしい場所に、牧歌的な初恋の相手として、理想の女の子を描いて見せました。
当時、在ったかもしれない、しかしほとんどあり得ない、日本人少年と朝鮮人少女の物語。
これを読んで、私は12歳の少年時代に戻り、胸を痛めずにはいられません。
小学校の同級生で、何度もラブレターをくれ、返事をしなかったら、最後のお願いと言って写真をねだった少女。
幼い私はどうしていいのかわからず、完全に無視してしまいました。
別々の中学に進みましたので、その後彼女がどのように成長していったのかは分かりません。
もう40年も前のことなのに、今でも思い出すとひどいことをしたと、悔やまれます。
一緒に歩いて帰るとか、公園で遊ぶとか、その程度のことさえ出来なかった私が。
それが出来ていたのなら、中学に進んで疎遠になるにしても、在ったかもしれない物語を生きることが出来たでしょうし、何よりも少女を傷つけずにすんだでしょう。
小説の中の物語と、在ったかもしれない私の物語を想わずにはいられません。