よろづを投げ捨てて

文学

 我が身、五十余年を過ごし、夢のごとし、幻のごとし。
 既に半ばは過ぎにたり。
 今はよろづを投げ捨てて、往生極楽を望まむと思ふ

 今様を集めた「梁塵秘抄」に見られるものです。
 今様とは、今流行っている歌という意味で、平安時代末期の流行歌と言うべきものです。
 流行歌だけあって、恋の歌なども多くみられますが、極楽往生を望む歌が多いように感じます。

 冒頭の今様は、もっと長いのですが、後略としました。

 遊びや愛欲の世界に生きて五十を過ぎた男が発心し、極楽往生を望む今様です。

 私もまた、8月で51歳になります。
 発心を起こさぬどころか、まだまだ遊び足りない気分ですが、平安時代には50歳と言えば、老人の部類だったのでしょうね。

 人生の終わりを予感すれば、極楽往生を遂げたいと思うのは人情と言うべきで、まして仏教が人々にとって身近な存在であった平安時代には、当然のことだったのでしょう。

 現代では仏教と言えば葬式くらいしか思い浮かびません。
 私は寺で生まれ育ちましたが、仏教について詳しくはありません。

 それでも、死が訪れたなら、西方浄土に往生したいと思うでしょうね。
 もしそんな場所があるのなら。

 人生100年時代とか申します。
 そうだとすれば、私はやっと半分を生きただけ。

 まだまだ長い後半生が残っているはずです。
 その長い後半生を無為に過ごすか、発心を起こすかでは、大分異なるものになるでしょう。

 しかし今はまだ、仏道修行に励むつもりはありません。
 夢のごとく、幻のごとき毎日を過ごすより他ありません。

 それが人生を楽しむことだと思います。
 そして時が満ちたなら、よろづを投げ捨てて、仏にすがることにいたしましょう。