近頃学術研究機関では、インパクト・ファクターという数値を競うのが流行っています。
これは要するに、ある論文がどの程度他の論文に引用されたかを示すものです。
しかし、インパクト・ファクターを1950年代に考案した学者は、インパクト・ファクターが高いことがその研究者の優劣を見極める材料にされることを怖れていました。
その怖れていたことが、今、起きているわけです。
引用といっても、批判的に引用されることもありますし、また、研究者が多い分野の論文は凡庸なものであっても引用回数が多くなる傾向にあります。
逆に、研究者がごくわずかな分野の場合、どんなに優れた論文を書いてもそんなに引用されることはありません。
それなのに、私の業界では、まるでインパクト・ファクターが高いことが優れた研究者の証であるかのような誤解がまかり通っています。
インパクト・ファクターの欠点を補完する概念として、ベンチ・マークというものがあります。
引用された回数のうち、どのような位置づけで引用されたかを数値化したもので、インパクト・ファクターとベンチ・マークを突き合わせて、初めてその論文の優劣を、ある程度判断することができると考えられています。
しかしベンチ・マークよりもインパクト・ファクターのほうが分かりやすいためか、これを偏重する傾向が見られ、誠に嘆かわしいことです。
まぁ、私は事務職ですから、その試練にさらされることは無いわけですが、教育研究職の人々を見ていると、業績を挙げようと血道をあげ、なんだか哀れを催します。
特に最近、研究教育職は5年程度の任期付き雇用が増え、任期の間に業績を挙げられなければ解雇される可能性があります。
任期付きの大学教授が、結構な高給取りでありながら、住宅ローンを組めなかったという笑えない話もあります。
銀行にしてみれば、数年後の職が保証されていなければ金を貸したくても貸せないということなんでしょうね。
ために安月給の事務職のほうが、身分が安定しているため、若くして家を買えるという奇妙な現象が起きています。
小泉改革以来、学術の世界にも競争原理が導入され、それは良い面もあるのでしょうが、そこに身を置く者からすれば、世知辛い世の中になったものだと痛感します。
産学連携の美名のもとに、企業から研究費を工面することに汲々とし、医学や生活工学など金になる分野ばかりがもてはやされ、基礎科学や文学、哲学など、金を引っ張ってこられない分野は、ほとんど手弁当で研究を続けている有様です。
こんなことで、わが国の学術研究に未来はあるのでしょうか?
直接金にはならない人文科学などの分野にも、きちんと税金を投入して高度な研究を続けないと、いずれわが国は金の亡者ばかりで総白痴化し、世界から取り残されるような気がしてなりません。
しかしその世界で禄を食みながら、何の権力も持たない一事務員に過ぎない私には、どうすることもできないのです。
切ないですねぇ。