エコ源氏

文学

  エコロジーというのは近頃の流行りですね。 
  燃費が良い車に乗るとか、割り箸は使わないとか、そんなイメージですね。 
  しかし米国人の日本文学研究者が、奇妙なことを言い出しました。 
  エコ「源氏物語」研究が必要だそうです。
 エコとはいっても、「源氏物語」で自然がどう語られているか、とか、紫式部の自然観とか、そういったことを研究するのではないそうです。
 文化を考えるときに、例えば日本人は日本文化を日本独特の素晴らしいものだと考えます。
 その米国人は、このような文化への態度を、
文化は常に同時に宣戦布告なり、と言っています。  
 文化の独自性を言い立てるのではなく、文化の普遍性を見つけることが肝要、ということです。
 
エコロジーの問題を、国家に任せるのではなく、自我他者に関する態度や、考え方そのものから変えていかなければならないそうです。

  「源氏物語」のエコ研究ですが、「源氏物語」は総体的に支配できるような読みを拒絶する構成になっており、それをしようとするとtextual violenceとでもいうべき、暴力的な状況が生まれます。
  「源氏物語」が持つ不安定さを読み取っていく作業が、個人的レベルのエコロジーだと、唐突に結論づけています。
   「源氏物語」は時間・系統が揺らいでおり、ボーダーがない状態で、この境界のなさが「もののあはれ」に繋がり、近代国家のナショナル・アイデンティティーから最も遠く離れた作品だというのです。 

  人間は物語、という行為からすべてを始めるしかないのだから、その際は「源氏物語」のように軸が歪んだ物語をして、エコを目指そう、と締めくくっています。 

 ずいぶん強引な論法で、何かエコロジーというものに強い思い入れがあるようです。 
  論者は嫌うかもしれませんが、私は日本文化の普遍性よりも独自性を極めることに興味があります。 
 私は好戦的なのでしょうか。? 


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