エリートとコスモポリタン

思想・学問

 最近ようやっと、ゆとり教育の弊害が広く国民の間に浸透し、教科書も厚くなり、ゆとり教育は崩壊しました。

 私はゆとり教育が始まった頃から、まずい風潮だと思ってきました。

 知識の詰め込みは良くない、自分で考えて、個性を生かせる教育をすべきだと言うのですが、基礎的な知識が無いまま考えろと言われても、それは独善にならざるを得ません。

 また、個性の無い人間はいない、という掛け声のもと、個性的であれ、という意見もありました。

 しかしそれは、個性と言うより性格と言うべきでしょう。

 真なる個性は、個性を殺すような教育を受けてこそ、それを跳ね返して飛びぬけてくるものです。

 まして教育というのは、一般社会でまともに役立つ、普通の人を作ることが目的です。

 他人を尊重できて、きちんと社会情勢に興味を持って、礼儀正しい、普通の日本人です。

 エキセントリックというか、個性的な人間は作るのではなく、勝手にそうなるのです。


 かつて、大正時代くらいまでは、日本人の教養と言えば、仏書漢籍や国文学が基本でした。

 夏目漱石や森鴎外などの明治の文豪は、方や英国に、一方はドイツに留学して西洋の教養を身につけましたが、その精神の核となっていたのは、古来からのわが国の教養であったに違いありません。

 その後、デカンショ(デカルト・カント・ショーペンハウエルの略)などに代表される西洋の知識が旧制高校生などの間で大流行し、少しづつ、わが国古来の教養は廃れていき、戦後は見る影もありません。

 寂しいことです。

 旧制高校生というと、旧帝国大学に進み、高級官僚やエリート・サラリーマンになる、というイメージがありますが、尾崎放哉などのように、保険会社の社長にまで上り詰めながら、30代でそれを投げ出し、乞食同然の暮らしをしながら、一種のコスモポリタンのような自由な精神を持って生きた人もいます。

 夏目漱石の小説に登場する、旧帝国大学を卒業しながら就職せず、実家の援護で遊んで暮らす、高等遊民と呼ばれる人々も、一種のコスモポリタンでしょう。

 そう考えると、官製のエリート養成機関であったはずの旧帝国大学は、国家にとって仇となる可能性があるコスモポリタンをも養成していたわけで、懐の深い大学群だったのだろうと思います。

 翻って、現代のエリート・サラリーマンや高級官僚はどうでしょう。

 私にはいわゆるキャリア官僚と呼ばれる文部科学省のエリートの知り合いが何人もいますが、彼らの知識もまた、西洋流に偏っている気がします。

 彼らの記憶力や知識の量は凄まじいものですが、日本人の核となる部分が抜け落ちているような気がします。

 国際会議の場などでは、タフな交渉を厭わない日本のエリートが、夜のレセプションなどで、外国人からわが国の古典的な文化や芸術、歴史などを尋ねられ、答えに窮するという噂はよく耳にします。

 自国のことを知らないようでは、外国人に馬鹿にされても仕方ありませんね。

 ゆとり教育廃止に伴い、この際、江戸時代以前に行われていた漢籍の素読や、和歌の丸暗記、仏教教育などをも、大胆に復活させるべきだと考えています。

 明治以降、わが国は西洋に学んで西洋の長所を取り入れることにばかり熱心で、わが国の長所を忘れ去ってきたように感じます。

 ただ、多分、今の教師にそれを教える能力を持つ人はほとんどいないでしょうねぇ。

 それならば、坊さんや、定年退職した仏書漢籍や日本古典に詳しい大学教員に小学校の非常勤講師になってもらい、これを復活せしめたら如何でしょう。

 教育は国家百年の計と申します。

 皮肉なことに100年前に行った、西洋に学べ、という教育は、今、見事に当たってしまいました。

 次の百年を見据えて、是非ともわが国精神文化の核となる重要な教育を復活せしめるべきでしょう。


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