日々、寒くなってきます。
寒くなると、熱燗がうまいですね。
寒い季節は酒が三割方よけいにうまくなります。
そして、寒い季節、おこたにあたっていると、人肌恋しくなってきますね。
性欲というのは元来子孫繁栄の生殖行動に直結するもののはずですが、我々人間はもうちょっとややこしいことになっていますね。
例えば自慰行為は何も生み出しませんし、同性愛もしかり。
避妊具を使えば男女間のセックスも生殖ではありません。
なぜ生殖に結びつかない性愛に人は一所懸命になるのでしょうね。
エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える。
バタイユの「エロティシズム」に見られる言葉です。
また、禁止を犯すことがエロティシズムだとか、犯されるために禁止があるとかめんどくさいことを並べています。
どうもキリスト教文明圏の人々は性愛の分野になると、ややこしいことを言い出す傾向があるように思います。
それに比べて、わが国では面倒なことは言いません。
江戸時代に書かれた「色道大鏡」に見られる記述は、遊郭のしきたり、遊女の番付、遊郭での笑い話などばかりで、色ということを突き詰めようとはしません。
また、同じ江戸期に書かれた「心友記」は、稚児を口説き落とすテクニック集のような趣で、誠にけしからぬ書物です。
平安期の色好みにしても、江戸時代の色道にしても、要は性欲から発する痴態を、洗練された型にはめようとしてできた概念で、深い哲学的考察の末のものではないでしょう。
しかしだからこそ、日本で色ということが朗らかで牧歌的なイメージを持ち、生の称揚にまで高められると言えましょう。
バタイユは小難しい顔をして大発見をしたかのように、生を称えることだ、と言いましたが、日本人にとってはあんまり当たり前すぎて口に出すのも馬鹿馬鹿しい。
その昔、芸術か猥褻か、なんて最高裁判所までひっぱりこんで議論していたことがありました。
サド裁判の被告でサドの小説を翻訳した渋澤龍彦は、猥褻にまで高められた高度な芸術を便宜的に猥褻と呼ぶのだ、という意味のことを言っていました。
名言ですね。
色もエロティシズムも猥褻も、すべて人間の生への称揚であり、これほどおめでたいことは他にはないのではないでしょうか。
 | 色道大鏡 |
藤本 箕山,新版色道大鏡刊行会 |
八木書店 |
↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
