本堂の ツリーまばゆい 保育園
都合よく 神と仏を およびして
上のような川柳が生まれるように、わが国民は宗教に対して誠に寛容。
八百万もの神様がおられる国ですから、三世の諸仏が入ってこようとアッラーの神が入ってこようと、どうってことありません。
八百万という神々だって、だいたいそのぐらい、という程度の意味ですから、実際に何柱になるのか、さっぱりわかりません。
そのような宗教的バックボーンを持つわが国で、キリスト者として生きるのは大変困難なことだろうと思います。
キリスト者は、日本という多神教的もしくは無神論的社会のなかで、聖書の教えに従って、永遠の汝=神との関係性を第一として生きなければなりません。
精神的にそのことが可能であったとしても、教会は現実に存在する組織です。これを維持し、布教を続けるには、先立つものが必要です。
而してキリスト者は、異教の社会で、聖書に忠実に、しかも金を儲けなければいけないのです。なんという苦難。
キリスト者たろうとするのは、この日本ではイバラの道を歩むことなのです。
翻って、仏教や神道。
じつはこちらも、キリスト者と事情はそれほど違いません。
日本人のほとんどは、なんちゃって仏教徒とも言うべき、教義も知らず、墓参りと葬式以外興味がない、信仰を持っていない人たちで、プロの宗教者もそれに合わせて仏教の根源的な教えを広めることよりも、金儲けに主眼を置いていますので、それ以外の、悟りへの道をひたすら求める者にとっては、生きやすい社会ではありません。
しかし葬式仏教は、高度に洗練されたものなのかもしれません。
仏教とキリスト教、また、他の諸宗教が共通して持つ役割があります。
葬送儀礼です。
仏教もキリスト教もその教えの部分では、葬送儀礼に重きを置いていません。
しかし現実の厳しい毎日を生きている庶民にとって、最も宗教的感情が高まるのは、身近な人が亡くなったときです。そして世界中で、示し合わせたかのように、葬送儀礼は豪華なのです。
この、教えや理屈に合わない、人の死に際しての素朴な感情こそが、宗教をこれまで存続せしめた核なのではないでしょうか?
呪術的とも、神秘的ともいうべき、永遠の謎である死という事態。
この事態に、人間は共通した対処をとらずにいられない霊性を身に付けているように思えてなりません。
下の本を参考にこの記事を書きました。
![]() | 宗教の発見―日本社会のエートスとキリスト教 (阪南大学叢書) |
村田 充八 | |
晃洋書房 |