50年前、1968年の今日、ベトナム戦争中にソンミ村虐殺事件が起きました。
これは、南ベトナムの米軍基地の周辺に潜むゲリラを掃討するための作戦の一環で、ソンミ村に派遣された、24歳の中尉を隊長とする小隊が、女性や子供、僧侶などの無抵抗な村民、500人以上を虐殺したものです。
中尉は終身重労働の判決を受けますが、時の米国大統領の命令で即日釈放。
結局誰も責任を取っていません。
中尉、軍法会議では上官の命令に従っただけ、と繰り返すばかりでした。
あのナチのアイヒマンは、上官の命令を忠実に実行しただけ、と弁明しましたが、処刑されています。
南京虐殺(諸説ありますが)にしたって、ソンミ村虐殺にしたって、あるいはナチの蛮行にしたって、結局どれも同じ心性から発していると思います。
上官の命令による裏付けのもと、狂気をはらみながらも冷静に多くの人を虐殺する、という。
戦時における民間人への蛮行や虐殺は無くなることが無いようです。
ベトナム戦争では米軍はゲリラに悩まされましたから、発覚していないだけで、他にも虐殺事件はあったのではないかと邪推してしまいます。
ゲリラに最初に悩まされたのは、日中戦争における日本軍であろうと思います。
それまでは、軍服を着た正規の軍隊と軍隊が戦う、というのがルールでしたが、民間人に紛れて、民間人と同じ格好をして、密かに武装し、突如襲ってくるゲリラが発生。
日本軍はそれら中国人ゲリラを便衣兵と呼んで大層恐れたそうです。
それは当然です。
いつ、どこから、男のみならず、女や子供が襲ってくるか分からないのですから。
それ以来、ゲリラは弱者にとって非常に有効な戦闘手段になりました。
現代社会を悩ますテロも、元をただせばゲリラ戦法に行き着くと思います。
人間には戦闘本能とでも呼ぶべきものがあり、矛盾するようですが、それは他者の心情に共感する、という能力に多くを負っていると思います。
ただし、他者と言っても、仲間にほぼ限定されます。
同じ村に住む者が隣村の者に暴行を受けたとします。
同じ村の者たちは結局は他者でしかない暴行を受けた者の心情に共感し、隣村に復讐のための攻撃を仕掛ける、という図式です。
他人の心情に共感する、というのは、人間の良い面であろうと思います。
それがなければ、共同体など成立し得ません。
しかし、復讐心や敵愾心など、負の感情に共感すると、それこそ進め一億火の玉だ、みたいになってしまいます。
共感力をコントロールする方法を見つければ、争いは減少するのではないか、などと夢想します。![]()
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