テロ

社会・政治

  またもや凄惨なテロ事件が起きてしまいました。

 パリの劇場で、飲食店で、サッカー場で、多発テロの被害は、死者120人を超えるそうです。

 テロリストを非難するのは簡単ですが、単純にテロリストは極悪非道の犯罪者と決め付けてしまわず、なぜ彼ら彼女らが魔術的な信念に囚われ、凶行に及んだのかを考えて見る必要があるでしょうね。

 わが国において、戦前はテロと言えば右翼過激派の青年将校が起こすものでした。
 戦後は左翼過激派が、時代がくだるとオウム真理教のような宗教団体が惹起せしめるようになりました。

 しかしこれらの動機の根っこは同じようなものであろうと思います。

 魔術的思考に陥った若者が、魔術的信条もしくは信仰を持つようになり、自分たちと異なる考え方は一切が悪だと決め付け、悪である以上話し合いの余地はなく、魔術的な動機で悪を懲らしめる、というもの。

 こような幼稚な思考、女性は知りませんが、男であれば多かれ少なかれ少年時代に一度は陥ったことがあるのではないかと思います。
 もちろん大多数の人々は成長するにしたがってそれが馬鹿げた考えだと気付き、まともな社会人になっていくわけですが。

 私自身、10代の頃、行き場の無い鬱屈を抱え、無差別殺人を夢想したことがあります。
 夢想であれば若い者にありがちな戯言で済みますが、これを実行した場合、怖ろしい犯罪に変わります。

 テロ対策の要諦は、時間はかかりますが教育をもって嚆矢とします。
 多様な価値観を認められる、冷めた大人の態度を身に付けるよう教えるのです。

 しかし悲しいかな、イスラム原理主義はイスラム教だけが唯一の正しい教えだと教育しますから、当然、他の宗教や考え方を受け入れる余地はなくなります。
 テロが正当化される所以は、ひとえに自分たちだけが正しいと信じ込むことに由来します。

 で、欧米やわが国など、自由民主主義の国家がイスラム教を認めたところで、イスラム原理主義者は日米欧などのような他の考えを認めないわけですから、どうしたって戦う他なくなります。

 これは、一神教をやみくもに信じる人々と、多様性を認めようとする人々との争いで、いわば正義と正義のぶつかり合いです。

 もちろん、私たちはテロを絶対に認めませんが、彼らはイスラム原理主義以外すべてを絶対に認めないわけですから、ことは殲滅戦の様相を呈します。

 かつて私は、利益を求める戦争を止めることは可能だが、正義を求める戦争は止めることは困難であると、このブログで主張しました。

 欧米は平和を達成するために戦争をするという矛盾に巻き込まれているわけですが、テロリストもまた、理想社会実現のために戦っているということになり、これは非常に厄介な事態で、おそらく100年たっても続くでしょう。

 これを防ぐには地道な警備強化しか打つ手はなく、しかもテロリストは狡猾に、庶民の仮面を被りながら、突如、牙を向くわけですから、完全に防ぐことは不可能と言ってよいでしょう。

 いつの時代も紛争の種は尽きないものです。

 おまえたちが命を愛している以上にわれわれは死を愛している、とビン・ラーディンは語ったと伝えられます。
 ご本人は米軍に捕らえられ、簀巻きにして海に放り込まれました。

 誠に悲しいことですが、わが国の子供たちには多様性を認める態度を涵養せしめるとともに、話し合い不可能なテロリストには、力で対抗するしかないのでしょうね。

 人類共通の、永遠の理想である恒久平和は、今のところ絵に描いた餅のようです。

 このような事件が起きるたびに人間に対する深い絶望とともに、私もまた愚かな人間の一人だと気付き、ぞっとします。
 せめておのれの中に眠る獣性だけは、死ぬまで眠らせておかなければならないと、反省しきりです。