働けば、金を得ます。
金を得れば、酒に化けます。
働く、という無味乾燥なつまらぬことをして、酔いを得るというのは誠に愚かな生活だと思いますが、私はそれを止められません。
1920年代に製作された映画「メトロポリス」では、ごく一部の支配層=脳と、圧倒的多数の労働者=手による世界を描き出し、脳と手を結ぶ物として、心が必要だとしました。
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アルフレート・アーベル,ブリギッテ・ヘルム,グスタフ・フレーリッヒ,フリッツ・ラスプ,ルドルフ・クライン=ロッゲ | |
株式会社コスミック出版 |
この映画はSF映画の原点であり、金字塔とも言われます。
21世紀の現代において、脳と手は明らかに分離しているように思います。
そして手である労働者は、ほぼ仕事だけの日々を送り、人間性を失い、虚無に陥っているように思います。
ていうか、私自身が手でしかなく、ほとんどニヒリズムに沈んでいます。
人間が社会的な生き物であり、細分化された仕事を担うことで碌を食むことができるように出来ていますから、これはある程度仕方がないというか、当然に起こり得る現象です。
では、労働だけ、みたいな生活から抜け出し、手が人間性を取り戻し、苦難を乗り越え、ニヒリズムを脱し、ある種の快活さを取り戻して、存在することに疑問を持たず、ただ当然に有る、という境地に至るにはどうしたら良いのでしょうね。
人によっては信仰だ、と言うでしょう。
逆に言えば、人はそういった状態に生きているからこそ信仰を持ち得る、とも言えます。
あるいは、農村的生活だ、という人もいるでしょう。
しかし、学生の頃はゲバ棒を振り回して遊び、中年期にはバブルに踊り、老年に至ってしっかり年金をもらいながら農業に目覚めた、みたいな気色の悪い団塊を除き、農村的生活は手、そのものであると言えるでしょう。
逆説的なようですが、社会的な生き物であるからこそ陥ったニヒリズムから脱する道は、社会あるいは共同体の中にしか存在し得ない、と私は感じています。
伝統的な文化や価値観が近い共同体の中で、それを空気のように当たり前と感じられて、人との繋がりの中で生きることが、ニヒリズムから脱する近道であろうと思っています。
しかし、わが国では伝統的な共同体というのは絶滅危惧種と言うべきで、特に都市部においてそれが顕著です。
そのあたりに、現代社会が抱えるメトロポリス的な危機があるように思います。