パリ同時テロからちょうど2年だそうです。
世に争いの種が尽きることはあるんでしょうかねぇ。
歴史を発展の途上と捉えて、その最終段階に恒久平和が訪れる、と考えるのは、どうしても無理があるでしょうね。
かといって、歴史は繰り返す式の、歴史を円環的に捉えるのもバカげていると思います。
時間は矢の如く一方向に向かっているというのが、人間の捉えられる時間の概念ですから。
恒久平和を求めるのは、どこにもない場所を意味する、ユートピアを求めることと同義だろうと思います。
ユートピアを未来に求める人は、常に希望をに飢えている人でしょうね。
それでも、ユートピアを過去に求める人よりはマシなんじゃないでしょうか。
例えば、縄文時代は階級も差別もなく、自然と一体化した理想社会だった、みたいな。
そんなことを考えたところで、現代人が縄文の昔に戻れるはずもありません。
ユートピアを求める、という精神性には、人間の可能性を切り開き、実現化する動機づけになる、という肯定的側面がある一方、ユートピアを求めるという行為そのものが虚しいことであり、人間に無力感を植え付けるという側面もあります。
理想主義とかユートピア願望とかいうものは、諸刃の剣なのかもしれません。
しかしそれでも、私たちは、恒久平和という希望を失うわけにはいきません。
それがどこにも存在し得ないものだとしても、少なくともそれを求める気持ち失ってしまっては、ユートピアの片鱗に触れることすら出来ないでしょう。
しかし、だからと言って具体的方策は今のところありません。
ただ、目の前の危機を克服していくことしかできません。
そして目の前の危機が去ったところで、また新たな危機に直面するだけでしょう。
私はユートピアという言葉、あるいは概念を人間が生み出したことに着目したいと思います。
人間の心の中に、ユートピアを求める種がある以上、それは花開く可能性を持っているのだろう、と。