レンタル彼氏

文学

 世の中には不思議な職業があるものですねぇ。

 昨日、夕方のニュース・ショーを見ていたら、近頃、レンタル彼氏なる商売が繁盛していることを知りました。

 女性が若いイケメンとご清潔なデートを楽しむためにお金を払う、というシステムのようです。

 主に20代前半の男性とのデートを、20代から50代の幅広い層の女性が利用しているとか。

 冷え切った夫婦関係に不満を持つ主婦、夫の浮気が原因で離婚したシングル・マザー、若くして管理職となって年上の部下との関係性に苦しむ独身女性などなど。
 中には男性と話をするのが怖いのでそれを克服したい、という切実な悩みを抱えた女性もいるようです。

 レンタル彼氏に採用されるのは、100人中3人か4人という狭き門。
 
 採用の条件は、ホスト経験が無いこと、清潔感があること、聞き上手であること、気配りが細やかなこと、そしてもちろん、若くてイケメンであること、だそうです。
 ホスト経験が無い、という条件が、主に中高年女性の性欲を満たすイメージがある出張ホストと異なる点でしょうねぇ。


 面白いのはホスト経験があってはいけないことですかねぇ。
 普通のデートのような楽しさを求める女性には、素人っぽさが受けるのでしょうねぇ。

 料金は1時間5,000円で、食事代などはもちろん女性が支払うそうで、性的サービスは厳禁なんだとか。

 私はかつて、「聞き屋」という小説を書いたことがあります。
 若い男性が主に女性の悩みや愚痴を聞いてお金を貰うのですが、様々な悲喜劇が巻き起こるというドタバタ劇ですが、なんだかそれを地で行っているようです。

 キャバ嬢との店外デートや、最近問題になっている女子高生とのデートを楽しむJK散歩、あるいは、ソープ嬢との外出など、男が女性もしくはお店にお金を払って恋人気分を味わう商売は、今も昔も盛んですが、女性が男性とデートしたくてお金を払うとは、一見奇妙な感じがします。

 しかし、お金を払っているお客、という強い立場で異性とデートしたいという願望は、男も女も変わらないようです。

 男と女の仲というもの、人類が人類であるかぎり、永遠の謎であるかのごとくです。

 しかも、人間、男と女などと単純に割り切れるものでは無いことは明らかです。
 男と男女と女との間にも、恋情は生まれます。

 さらに、体の性が男で心が女である戸籍上の男と、体の性が女で心が男であるという戸籍上の女が恋に落ちると、戸籍上は普通の男女の恋愛と同じでありながら実態は男女が逆転しているという複雑な関係性もあり得ます。

 もっと言えば、体が男で心が女という戸籍上の男で、性欲の対象が女である場合、それは肉体的には異性愛でありながら精神的には同性愛であるという、もはや何が何だか分からない関係性も現実に存在しています。

 ついには生身の人間に欲情することなく、下着だとかハイヒールだとか、無機物にしか性欲を感じないという、にわかには信じがたい人々もいますね。

 また、サディズムが究極に至れば、殺人にまで至りますし、逆にマゾヒストは究極的には殺害されるほどの凌辱を求めてしまいます。

 そうなると、人間の性欲や対人欲求は、もはや破壊されているとしか言い様がありません。

 なぜそんなことになってしまったのでしょうねぇ。

 誰にも分からないことです。

 そのような、誰にも分からない哲学的な問題は、理論や理屈では説明できますまい。
 だからこそ、それらの問題は、物語や詩歌などの文学が得意とするのでしょう。

 奇しくも今夜はノーベル文学賞の発表があります。

 ここ何年も候補に名前が挙がっている村上春樹が受賞するかどうかは別にして、人間精神の不思議を直感的に追求する文学の意義を考える機会になると宜しいでしょうねぇ。

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