与える

思想・学問

 東日本大震災以降、盛んに目にし、耳にするようになった言説に、勇気を与えたいだとか希望を与えたいだとかいう物言いがあります。
 私はこれらの言い方に、非常に強い違和感を覚えます。

 よく時代劇なんかで軍事力も財力も無い腐れ公家なんかが、権威だけを頼りに、「官位を与える」なんて言ってますね。

 与えるという言葉は、上の者が下の者に何事かを恵んでやる、というニュアンスがあります。

 しかるに、スポーツ選手が「試合で努力する姿を見せて勇気を与えたい」だとか、芸能人が「芸で希望を与えたい」だとか、ボランティアが「絆を与えたい」だとか言っているのは、大傲慢というべきものです。
 某ボクシング選手などは、「勇気を与えれるようにしたい」などと発言して、言葉の誤用に加えてを抜き、滑稽味を加える芸の細かさです。

 それを言うなら、「希望を持ってほしい」とか言うべきでしょう。

 言葉は変化していくものではありますが、意味があまりにも変ってしまっては、意思の疎通が困難になります。

 こだわる、という言葉も年配者と若者の間では逆の使い方をしていますね。
 本来の意味は、ある物事に執着してうじうじする、というような、悪いイメージのある言葉です。
 しかし最近では、ある物事を突きつめて探究するというような、良いイメージに変わりつつあります。

 新入社員などが年配の管理職に「課長は○○にこだわりがありますね」なんてうかつに言ったら、雷を落とされちゃいます。

 また、大正時代、女学生が「○○のことよ」とか「○○ではなくってよ」などと言うのが流行ったようですが、これなどは当時、大人から大顰蹙を買っていたそうです。
 今で言えばギャル語みたいなもんですかねぇ。

 若者言葉というのはいつの時代も年配者から嫌われますが、それが社会に定着することは稀で、また次の世代には新しい若者言葉が生まれ、かつて若者だった年配者に嫌われるという、永遠の繰り返しです。

 しかし、私の見るところ、与えるこだわる、は今後誤った使い方が定着し、それが正しい使用法ということになっていくものと思います。
 ら抜き言葉にいたっては、すでに大方定着したようです。
 私は意地でもを抜きませんが、そのうちを抜かずに話すだけで年寄りくさいと言われるようになるんでしょうねぇ。

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