私はどういうわけか、両極端の印象を与えるらしいことを、かねてより遺憾に思っています。
つまり、私との付き合いが極めて希薄な人からは、糞真面目な堅物に見られ、少し親しくなった人からは、極悪な鬼畜と見られるのです。
不思議なのは、深く付き合うと、極悪に見える側面はあるものの、基本的には糞真面目な人物だと印象が変わることです。
自分では、遊び好きな一面はあるものの、糞真面目な人間だと思っています。
どうしてそういう現象が起きるのか、よく分かりません。
ただ、披露宴のビデオを観た時、私の表情がかなり悪っちく、皮肉屋めいて見えることに驚いた記憶があります。
自分では、いかにも人が好さそうに見えるはずだと思い込んでいましたから。
同居人もまた、私に対する印象については、同じような経過をたどりました。
初めて会った時は、真面目そうだけど覇気が無いと思い、付き合い始めた頃は悪い人だと思って深入りしないようにしようと思い、籍を入れる段階にいたって初めて、じつはすごく真面目な人なんだと思うようになったとか。
一方、同居人は、概ね真面目な堅物という印象を誰にでも与え、少し付き合うと、若干柔らかい面もあるらしい、くらいでとどまり、私のようにジェット・コースターのように印象が乱高下することはありません。
そのため、中途半端に私を知っている職場の人々は、私が同居人と一緒になると聞いて、一様に驚愕の声を挙げ、挙句の果てに同居人は私に騙されている、という評判が立ち、私に対する評価は下がる一方でした。
つまり、とびおは遊ぶ女と一緒になる女を器用に分けている、というわけです。
それに関しては、私にも非があります。
同じ職場に勤めるやや派手めな女性と親しくしており、職場の人々は私はそっちと付き合っていると思い込んでいたからです。
ただ、言い訳をすれば、その派手めな女性も私とは別の男と付き合っており、互いに承知の上で遊んでいたというわけです。
今となっては過去は消せませんが、もう少し、周囲からどう見られているか気にしても良かったかなと反省しています。
しかしそれももはや遠い日の、ちょっとしたご乱行に過ぎません。
誰もが若いうちに一度は通る道だと思います。
若いうちに通過しなければ、中年になってとち狂う可能性が高く、そうなると手に負えません。
どこまでも突き進んでしまうでしょう。
年齢は関係ない、という言説を時折耳にします。
私はそれは間違いだと思います。
6歳になれば小学校に上がるように、年相応の経験を積んで、年相応の貫禄と落着きを身に着けることは、きわめて重要だと思います。
そういう意味では、私は精神障害を発症したせいか、実年齢以上に老けてしまったような気がします。
しかしそれを悔いたところで意味はありません。
その時々に、これが精いっぱいだという決断を下し、年月を重ねてきたわけですから。
大切なのは、過去ではなく、今日と明日。
明後日のことは知りません。
私は、今日と明日のことだけを考えて、後半生を生きていきたいと思っています。