人を読むほどの書

文学

 今週も月曜日から金曜日まで、しっかり通えました。
 ありがたいことです。
 ちょこちょこ休むと休み癖がついてしまいますので、少々の不調は我慢して働いたほうが気分が良いのですよねぇ。

 しかし仕事というのはそもそも体に悪いこと。
 いやなことを我慢してやればストレスになるのは当然。

 そうはいっても野生の肉食獣は食うために狩りをするのであって、楽しいからするわけではないでしょう。
 それが証拠に、檻の中に閉じ込められてさぞストレスだろうと思われる動物園の動物のほうが、野生の動物よりはるかに長生きだとか。
 食い物をいつも探している生活のほうが、閉じ込められるよりストレスということでしょうか。

 してみると仕事というのは命を削る行為だと言ってよいでしょうね。

 十分な財産があって、働かずに食えれば人間の寿命はずいぶん伸びるでしょう。
 しかし小人閑居して不善をなすと言うとおり、ろくなことはしないんでしょうね。
 飲んだり、打ったり、買ったり。

 仕事をせず、酒も飲まず、本も読まず、異性も求めず、映画や芝居も観ず、散歩もしない、そういう風に自分が背負っている業のような物をすべて捨て去ることができれば、こんな楽なことはないでしょうが、そこに残るのはのっぺらぼうな自分。
 のっぺらぼうな自分と正面から向き合う自信は私にはありません。

 人を飲むほどの酒はイヤにアルコホルの強い奴で、人を読むほどの書も性(たち)がよろしくないのだらう。
 そんなものを書いて貰はなくてもよいから、そんなものを読んでやらなくてもよい理屈で、「一枚ぬげば肩がはら無い」世をあつさりと春風の中で遊んで暮らせるものを、下らない文字といふものに交渉をもつて、書いたり読んだり読ませたり、挙句(あげく)の果には読まれたりして、それが人文進歩の道程の、何のとは、はてあり難いことではあるが、どうも大抵の書は読まぬがよい、大抵の文は書かぬがよい。
 酒をつくらず酒飲まずなら、「下戸やすらかに睡る春の夜」で、天下太平、愚痴無智の尼入道となつて、あかつきのむく起きに南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)でも吐出した方が洒落(しやれ)てゐるらしい。

 上は幸田露伴「平将門」の冒頭部分に見られる文章です。

 私もただ南無阿弥陀仏(実家は日蓮宗だから南無妙法蓮華経かな?)でも唱えて生きていられれば、こんな楽なことはありますまい。
 のっぺらぼうになっても、南無阿弥陀仏の信仰があれば、のっぺらぼうを怖れず生きていけるのかもしれませんね。

 でも根が疑い深いうえ、抹香くさい話は大抵胡散臭いと思うので、なかなかそうも生きません。

 長々書きましたが、要は遊んで暮らしたいと言いたいだけなのです。

平将門 (お風呂で読む文庫 69)
幸田 露伴
フロンティアニセン

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