金曜日のお昼休みを迎えました。
あと半日でお休み。
でも週末の天気はあまりよろしくないようです。
先週は田原町から浅草あたりを散歩しました。
その記憶は鮮明です。
しかし、時間は存在しない、という説を唱える人がいます。
つまり、人は常に、今、ここにしか存在し得ず、過去は過ぎ去っており、未来は想像しかできないので、過去も未来も、今、ここには存在せず、しかも人は今、ここにしか存在し得ないゆえに、過去も未来も無く、あるのは変化だけだ、という、屁理屈みたいなものです。
しかし変化があるということ、しかも常に変化し続けるのが現世である以上、変化こそが時間の正体であり、諸行無常と言うとおり、変化こそがこの世の本質だと思えば、時間が存在しない、とは言えないような気がします。
言えるとしたら、時間旅行は不可能(今の人間の能力では)ということだけなのではないでしょうか。
こんな思考を職場の昼休みに繰り広げるというのも、月曜日から金曜日まで出勤し、土日は休むという、ある種円環的な時間のなかで生きる私にとって、週末というのはその円環の区切りであるからかもしれません。
しかし、時間は、一日一日の繰り返し、一週間の繰り返し、春夏秋冬の繰り返し、のように、円環的に見えながら、じつは直線的なものであるでしょう。
同じ一日は存在せず、一年もまた然り。
私たちはただ真っ直ぐに、死に向かって突き進む直線的存在です。
突き進んでいながら、人は今、ここにしか存在し得ない、という悲劇を生きていると言えるでしょう。
愛おしく、甘美な過去は、思い出にひたることはできても、そこに戻ることは出来ません。
輝かしい未来は、想像することはできても、それを達成できるかどうかは分かりません。
何も分からないまま、今、ここを生きると言うことは、極めて困難で、しかも悲劇的です。
その困難な生を、多くの人は、特に意識することなく、ただ生きているだけです。
今、ここにしか生きられないという峻厳な事実を心の奥に銘じながら、私はただ、時を超える技術が生まれる日を夢想せざるを得ません。
SFなどでは易々と語られる時間旅行。
人間が想像できることは、必ず実現できる、なんてことを言う人がいます。
そうであるなら、時間旅行も必ず実現できなければならないことになるでしょう。
しかし時間が直線的なら、おのずとそれは不可能であることになり、私は深い絶望を禁じ得ません。