朝から本降りの雨。
いよいよ梅雨でしょうか。
今朝、車で通勤する途中、多くの小学生が通学する道で、子供たちはまるで雨を喜ぶかのように、長靴を履いているのを良いことに、わざと水たまりで跳ねまわったり、友達の傘を引っ張ったり、楽しそうでした。
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけむ、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
という、「梁塵秘抄」の文句を思い出します。
「梁塵秘抄」は平安末期の今様(流行の歌謡)を集めたものとされていますが、その成立や全貌は謎のままです。
![]() | 梁塵秘抄 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫) |
植木 朝子 | |
角川学芸出版 |
それはともかく。
子供たちのはしゃぐ声を聞いても、姿を見ても、私は我が身さえこそ動がるれ、とは思いません。
ただ、命の輝きとともに、その裏に隠された儚さを思い、世の無常を感じるばかりです。
玉のような赤ん坊であっても、お食い初め、七五三、義務教育、高等教育などの通過儀礼を経て社会人となり、世の垢にまみれた中年になり、ついには老い、死んでいきます。
それが細胞分裂ではなく、生殖行為による遺伝子の生き残りを図った生物の定めとはいえ、いかにも物思わしい人生の道行きだと感じます。
両親や祖父母、親戚に祝福された玉の赤ん坊の誕生。
しかしその祝福自体が、彼もしくは彼女の先々が平坦なものではないことを暗示しています。
そのことをよく承知している大人たちは、何者でもない短い赤ん坊の時代を、ことさら寿ぐのでしょう。
自分自身の来し方を考えればよく分かることですが、何の問題もなく成長し、成人後に何の挫折も味わうことが無い人など、ごく稀でしょう。
いや、ほぼいないと言っても過言では無いかもしれません。
私は小学校の頃、クラスの大人しい子を虐めて問題になりました。
高校受験は失敗し、2次募集で望まない学校に進みました。
高校時代には鬱屈を抱えて飲酒に及び、挙句の果てに深夜徘徊し、補導されました。
就職して6年目に結婚し、マンションを買って、人生順調と思っていたところ、思わぬことに精神障害を発症し、長く苦しむことになりました。
私の来し方も自覚的には困難の連続だったように思いますが、多分こんなの甘いもんなのでしょうね。
世の中にはもっと激しい、落下し続けるような人生を歩んでいる方も少なくなかろうと推察します。
楽しいことと辛いこと、どちらが多いのかは分かりませんが、えてして辛いことのほうが強く心に刻まれるようで、楽しいことは一瞬にして過ぎていくような錯覚を覚えます。
であればこそ、「○○を楽しみなさい」とか言うセリフが飛び交うのでしょうね。
外国映画なんかでも、よく「Enjoy ~」なんて言っています。
今この時を楽しめ、というわけです。
それは何も享楽的な意味ではなく、じつは人生の本質を突いた言葉なのではないでしょうか。
明日をも知れぬ身であれば、生きている今この瞬間を楽しまないでどうする、という。
楽しみは人それぞれで、スポーツをしている時こそ至高の瞬間という人もいれば、酒に酔っているのが最高に幸せという人もいるでしょう。
中には仕事が大好きという奇特な方もいらっしゃるのかもしれません。
そういうの、うらやましいですねぇ。
現役のうちは働いている時間が長いですから。
この世の法則にしたがって、私たちは老いていくわけで、今朝見た小学生たちも、いずれは成長し、年をとっていきます。
子供たちに、人生の先輩としてかける言葉さえ持ち合わせていない私にできることといえば、彼ら彼女らの人生が、少しでも楽なものであってほしいと願いつつ、ただ微笑んで見守ることだけです。
私はただ、どうにか人生の折り返しを過ぎるまで人並みの生活を維持して生き延びたことに感謝しつつ、若さに眩しさを感じ、しかしもう1秒たりとも若返りたくないと思うだけです。
もうあんな面倒な過去を繰り返したくありませんから。
どうせやり直したって同じような結果にるでしょうし。
そしておそらく、これからの後半生は、老いというものが如何なるものか、思い知らされることになるのでしょうね。
きっとしんどいのでしょうが、私は冷静な目で、己が緩慢に朽ちていく様を見届けたいと思っています。