昨夜は「仏教と精神分析」という書物を一気に読破しました。
心理学者で精神分析学者でもある岸田秀と、仏教学者の三枝充悳との対談集です。
例によって亡父の蔵書から頂戴してきた物です。
まず驚いたのは、岸田秀の東洋思想に関する無知ぶり。
寒山拾得の故事も知らず、唯識という言葉すら知らなかったのですよねぇ。
私はわが国で学者と言われるくらいの人は、専門が何であれ日本古典、漢文、仏教、儒教、神道などのわが国の精神文化を支えてきた物を一般教養として身につけているものだと思っていましたが、西洋かぶれの心理学者にはそんな物興味がなかったようです。
岸田秀といえば1980年代、世の中のすべては幻想だとする唯幻論や、人間は本能が破壊されているから自我を発達させたなどの説を唱えて颯爽と論壇に踊りだし、ニュー・アカデミズムの先がけとなった人です。
私も学生の頃、この人の著作を何冊か読みました。
当時から、この人の思想が仏教の唯識論に似ていることはたびたび指摘されていましたが、この対談集でもかなり突っ込んで唯幻論と唯識について語られていました。
私は一時期唯識論にはまり、続けて何冊か唯識の解説書のような物を読みましたが、今でも正確には理解していません。
仏教思想の中でもとくに難解なものです。
色即是空 空即是色
という言葉は誰でも耳にしたことがあると思います。
般若心経に出てくる言葉で、色(現実の存在)は空(実態が無い)であり、空(実態がない)だからこそ色(現実の存在)は存在しうる、ということで、つまり物事はそのもの単独で成り立っているのではなく、様々な関係性の中でしか存在し得ないということになろうかと思います。
悲しいかな、多くの日本人がこれを色欲に溺れるのは空しい、と理解しているようで、岸田秀もそうでした。
唯識では、通常の意識の下にマナ識(西洋で言う無意識に近いもの)を立て、さらにその下にアラヤ識(西洋でいう集合無意識に近いもの)が存在すると説きます。
この世の存在は生じては滅する刹那滅の連続であり、それを識が実体と認識しているに過ぎず、実体というのは識が作りだしたものだとします。
人の言動はすべて物事の原因になり、それはアラヤ識に種子(しゅうじ)として記録され、新たな刹那滅の原因となります。
結局のところ識ですら実体がなく、在るのはただ関係性だけだということになります。
かなり大雑把ですが、私はこんな風に唯識を理解しています。
一方岸田秀の唯幻論は、人間は動物と違って本能が破壊されており、それを補うために自我を形成したが、自我はどこまでいっても自分の目を通してしか物事を認識できず、ゆえにこの世は幻想であり、唯幻論ですら幻想の一つに過ぎない、とします。
ここに至って、意見の食い違いを見せていた両学者は、日本伝統の相対主義でその場その場をしのいでゆくほかない、と言う点で一致します。
理論はともかく、現実を生きる術として。
ユダヤ・キリスト・イスラムの3宗教のような絶対主義ではなく、物事を相対的に見る神道や仏教の考え方ですね。
戦国時代、キリスト教の布教のために来日した宣教師は、「日本人は他のアジア人と違い、非常に好奇心が旺盛である。ただし、神の話以外」とか、「日本人は唯一絶対神を認める絶対主義だけは絶対に拒絶する」とか、日本人気質の根底のようなことを本国に書き送っているそうです。
かつてニーチェが神は死んだとか言ってセンセーションを巻き起こしましたが、スイス人の知り合いによると、多くのヨーロッパ人は無神論者で、儀式などで仕方なくキリスト教信者のように振舞っているだけで、むしろ米国にキリスト教原理主義者が多い、と言っていました。
そういえばブッシュ・ジュニアもサダム・フセインを悪魔と呼んだりして物議を醸しましたね。
7日間で神様がこの世を作ったとか、この世の終わりに最後の審判があるとか、ほとんどSFとしか思えない法螺話がなぜ多くの信仰を集めるのか不思議です。
しかもユダヤ・キリスト・イスラムは基本的に同じような教義で、仏教の浄土宗と禅宗のほうがはるかに異なった教義を持っています。
近親憎悪か知りませんが、同じような教義の宗教同士が殺し合いを続けるとは狂気の沙汰です。
仏教では激しい非難の応酬はありましたが、宗教戦争というのはついに起こりませんでした。
おそらく、西洋ではギリシア・ローマ、東洋ではインドや中国において、アブラハムの3宗教が生まれる以前に、哲学的な命題は出尽くし、それに関する議論もほぼ終わっているのではないかと思います。
現代の哲学はその焼き直しであったり、解釈であるに過ぎないような気がします。
久しぶりに唯識や唯幻論に触れた、楽しい一夜でした。
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三枝 充悳,岸田 秀 | |
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