共通認識の不可能性とシンクロニシティ

思想・学問

 時折、絶対的な孤独感を感じることがあります。
 
 この世に存在しているように感じられるものすべてが、私自身の認識によるものにすぎず、実際は存在していないのではないか、と。

 これは、唯我論とか独我論とか呼ばれる考え方で、はるか昔から、哲学者を悩ませてきました。

ウィトゲンシュタインと「独我論」
黒崎 宏
勁草書房

 

自我体験と独我論的体験―自明性の彼方へ
渡辺 恒夫
北大路書房

 そういった哲学者の営みはひとまずおいて、私は私の感覚だけを語りたいと思います。

 まず、リンゴは赤い、と言った場合、私が見ているリンゴの赤さと他者が見ている赤さが同じと言えるのかは、誰にも証明できません。
 まして色盲の人はまったく違う色を見ているでしょうし、全盲の人は見ることが出来ません。

 見る、ということが、まずは疑わしく感じます。

 話は変わりますが、なんと世の中には、全盲の写真家がいるそうです。
 見えないものをどうやって撮影し、どうやってそれを確認するのでしょうね。

フレームのない光景―盲目の写真家いのちの軌跡
中川 晶子
主婦と生活社

 同じことは、聞くことにも言えますし、それを敷衍して、人間の持つすべての感覚に同様のことが言えるでしょう。

 そうなると、共通認識ということが、ほとんど不可能なことのように感じられます。

 この世に存在するのはおのれ一人であり、その一人が勝手に世界を認識している。
 おのれ一人が認識を拒絶すれば、世界は消滅する。
 認識しなくなるけど実際には存在するのではなく、本当に消滅してしまう。

 そんな考えに囚われることは、誰にでも一度はあるのではないでしょうか?

 そこまで極端ではなくても、現世を夢幻と捉える考え方は、日本人にはなじみ深いものです。

 私が感じる孤独感を、認識の問題としてとらえると、孤独感を解消することは不可能です。
 認識を共有することが可能だとは、私には思えないからです。

 しかし一方、ユングは、シンクロニシティ(共時性)という概念を持ち出して、人との不思議な縁について説明しています。

共時性(シンクロニシティ)の宇宙観―時間・生命・自然
湯浅 泰雄
人文書院

 シンクロニシティは、意味のある偶然の一致とか、必然的な偶然、とか言われます。

 私が初めてシンクロニシティを感じたのは、大学時代最も親しくしていた友人が、私と何の連絡を取ることも無く、まったく同じ日に独り暮らしを始めていた、という事実を知ったことです。
 
 例えば恋愛などでは、こうした偶然を、運命などと大げさに考え、それがゆえ、一層二人の絆は深まるのでしょう。

 私はシンクロニシティという概念を知った時、例え認識を共有することが究極のところ不可能だとしても、世の中には、目に見えない不思議な縁があり、その縁=シンクロニシティの存在を深く胸に刻むことで、絶望的な孤独感から脱することが出来るのではないかと思い、嬉しくなったものです。

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