文芸評論家の秋山駿先生の訃報に接しました。
83歳。
いわゆる内向の世代と呼ばれる作家や作品を肯定的に捉えた人でした。
内向の世代とは、全共闘運動がほぼ終焉した1970年代前半に生まれた文学上の流行で、全共闘の失敗からか、個人の内面を深く抉ることを旨とした文芸上の思潮です。
元々は文芸評論家の小田切秀雄が、それまでわが国で主流であった左翼的で元気一杯の文芸運動が、挫折感からか、個人の内面を描くしみったれたものに堕してしまった、という否定的な意味で名付けたものです。
それを肯定的に捉えたのが、秋山駿先生や柄谷行人でしたね。
私は中高生の頃、、古井由吉、後藤明生、日野啓三、黒井千次、高井有一ら、内向の世代と呼ばれる人々の作品群にのめり込んだことがあります。
なぜかと言えば、あまり面白くは無いものの、何か、深い意味があるのではないかと感じさせる雰囲気を持っていたからです。
しかし、大学に進んで、私はそれら作品群から、急速に興味を失っていきました。
要するに、文学作品というものが根源的に持っていなければならないエンターテイメント性を無視し、まるでオナニストが自慰によって垂れ流した精液を見るような、唾棄すべき作品群であると、思い至ったからです。
私は様々な文学作品に接してきましたが、結局のところ、私が求めているのは、社会性や、個人の内面などの小難しい側面を追求した文学ではなく、あくまでも嘘くさく、しかし美的で浪漫的な、文学本来が持っているエンターテイメント性であると思い至ったのです。
松本清張などの社会派や、石川啄木などの貧乏自慢の文学を好む人が多数存在することは知っています。
そしてそれらを好む人々が、浪漫文学を、お坊ちゃんのお遊びと呼び、あざ笑っていることも知っています。
好きに言うがよろしいでしょう。
しかし本来、文学は面白いもので、しかもお遊びであるはずです。
文学など、この世にあっても無くても良いものでしょう。
それなのに、不思議なことに、古今を問わず、洋の東西を問わず、文学は人間の本質を端的に表すものとして珍重されています。
苦労自慢や貧乏自慢を最初に繰り広げたのは、内向の世代よりもはるか昔から存在した、私小説ですね。
私は私小説を全く受け付けません。
物語の否定、あるいは物語作者としての資格が無い人が作り上げる世迷言としか思えません。
秋山駿先生の仕事にいかなる意味があるか私には分かりませんが、それがもてはやされる時代は、悲しいかな遠い昔。
時代のあだ花とでもいうべき文芸評論家が亡くなったことに哀悼の意を表しつつ、私はつまらぬ時代が終わりつつあることに、密かな喜びを感じずにはいられません。