冬の光

文学

 1日、読書をして過ごしました。

 篠田節子の「冬の光」を読みました

冬の光
篠田 節子
文藝春秋

 企業戦士として働き続けながら道ならぬ恋に身をやつした男の骨太な物語。

 康宏は一流大学を出てサラリーマンとなり、結婚して二人の娘にも恵まれ、孫も生まれて幸せな老後を過ごすはずでした。

 しかし、彼は学生時代の恋人で後に大学教授となる紘子と、20年の長きに渡って、不倫関係にありました。
 そのことが妻子に発覚し、家庭は破綻。
 一度は前非を悔いて家庭での生活を取り戻しますが、紘子との関係は、不思議な縁でなかなか切れません。

 康宏と紘子は学生運動をともに戦った同志でもあります。
 康宏は大学を出て企業戦士になりますが、紘子はアカデミズムの世界に残り、学生運動当時の精神性を保ったまま、永遠の若者として生きていきます。
 そんな二人の関係性は、不倫、という単純な言葉で片付けられるものではありません。

 定年後、紘子と会わなくなってずいぶん経ったころ、東日本大震災が発生。
 康宏は自発的にミニバンで物資を被災地に届け、そのままボランティアとしてかの地にとどまります。

 そこで見た凄惨な光景。

 ボランティア先で、仙台の大学で教員をしていた紘子の死を知ることになります。

 道ならぬ恋ながら、互いに依存していた相手の死。
 もう会わなくなってから長い年月が経っていますが、彼は一人、四国巡礼の旅に出、ミニバンで四ヶ月をかけて四国遍路を終えた後、東京行きのフェリーで帰宅の途につきますが、自殺か事故か、フェリーから海に落ちて亡くなってしまいます。

 物語は康宏の死から始まります。
 
 康宏の家族の日常が語られ、次女は康宏の死の謎を追うように四国に向かいます。

 次女の生活と、康宏の被災地でのボランティア、四国遍路が、それぞれ次女の視線、康宏の目線で語られます。

 小説からにじみ出るのは、老境を迎えた一個の男の、空虚な心象風景。
 企業での努力は何だったのか、家族とは、また、不倫の恋とは。

 家族、孫、年金、趣味。世間からみて恵まれすぎた老後に、何もない。
 ただ立ちすくんでいた。
 結局のところ、人生とは背負った重荷なのかもしれない。
 自分を生かしていたものは、背骨がきしむほどの荷物だった。
 それが推進力となって、自分を生かしてきた。

 被災地でのボランティアを終え、四国巡礼を思い立つ場面での印象的な言葉です。

 彼は人生を存分に生きたかを、自問しているのです。

 しかし、四国巡礼でも、彼は何も得ることが出来ないのです。

 もし老境にいたって上記のような心境になるのだとしたら、人生とは何なのでしょうね。

 重い荷物を背負っているからこそ生きられる、それを失ったら何も無いのだとしたら?

 もちろん、老人と言っても人それぞれで、定年して子供たちも巣立っていき、いよいよ身軽になって人生を楽しむ人も多いでしょう。


 私はたびたびこのブログで早く退職したいとつづってきました。
 食うために働くのは嫌だと。
 その私が現役としての役割を終えたなら、歓喜に包まれ、夢のような膨大な時間を過ごせるのだと信じて日々の苦役に耐えています。
 役割を失って感じる虚無感とは、あまりにも怖ろしい。


 サラリーマンの生涯を、本人の追想という形で、また次女からの視点で、重層的に描き出したたいへん重たい小説に仕上がっています。

 ラスト、康宏が何を見たかという場面には、心を揺さぶられるとともに、定年まで13年のおのれのこれからを思い、慄然とせざるを得ませんでした。 


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