凍死

社会・政治

 人間が死のうとする時、それには必ず苦痛が伴うものと思われます。
 突然死とは言っても、倒れてから亡くなるまでの数分は地獄の苦しみでしょう。
 まして餓死なんて、じわじわ弱っていくわけで、これほど苦しい死に様もないでしょう。
 
 北海道釧路市の共同住宅で、80歳代の夫と70歳代の妻が室内で亡くなっているのが発見されたそうです。
 二人はストーブのそばで亡くなっており、ストーブの灯油は空、買い置きのタンクも空だったそうです。
 警察は凍死の可能性があるとみて調べているとか。

 二人は手をつないで散歩するなど仲が良いことで評判だったそうです。
 部屋にはある程度の現金が残されていたとのことで、灯油を買う金が無かったとは思えません。 

 凍死という死に方がどれほど苦しいのかわかりませんが、布団をかぶるなり、寒さをしのぐ術はなかったのでしょうか。
 いくら寒いといっても、室内で布団に入っていれば、死ぬことはなかったのではないか、と邪推したくもなります。

 しかしこれが、心中だったら?

 方法としてはずいぶん消極的ですが、老夫婦にとっては最も安易な方法に思えたのかもしれません。

 長い人生を共にし、十分に生きた、という充実感と、これからどんどん弱っていく体への絶望感、それに現代社会に対する呪詛、さまざまな要因が絡まり合って、老夫婦は心中ということに強い魅力を感じたのかもしれません。

 川端康成「老醜をさらしたくない」と言って自殺しました。
 江藤淳「脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり」との遺書を残し、妻の後を追いました。

 老齢に至り、おのれの生き死にについて、どういう心境の変化が訪れたのか、誰にもわかりません。

 老人といっても、生きるために労働を続けている人、悠々自適の人、体が動く人、寝たきりの人、独り暮らしの人、家族に囲まれている人、夫婦だけの人、様々です。
 その多様な人々を老人という枠だけでくくるのは乱暴との謗りを承知で思います。

 しかし私は、老人ならではの死生観が生まれるもの、または生まれて欲しい、と思っています。

 そうでなければ、私は現在の未熟な死生観を持ったまま、死に直面しなければならないからです。

 釧路市の老夫婦のご冥福をお祈りします。

江藤さんの決断
朝日新聞「こころ」のページ
朝日新聞社

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