米国、ニュー・ヨーク州で同性同士の婚姻が可能になったそうですね。
すでに米国のいくつかの州では同性愛者の婚姻が法的に認められているところ、最も同性愛者の比率が高いとされる大都会でこれが認められたことは、他の州にも影響を及ぼすでしょう。
決め手となったのは、教会が同性愛者であることを理由に挙式を断っても、同性愛者は訴訟を起こしてはいけない、という条項を加えたこと。
キリスト教は同性愛を禁じているので、教会や熱心なキリスト教徒もこの条項のおかげで、公正と平等の観点からやむなく賛成したものと推測します。
少なくともこれで法的には、同性愛者は日陰の花ではなくなったわけです。
同性愛の皆様には申し訳ありませんが、異性愛者として同性愛を扱った文学、芸術を愛好する者としては、背徳の香りや淫靡な感じが薄らいで、少々残念な感じがします。
わが国では同性同士の婚姻は認められていないため、同性愛者がパートナーと法的に繋がるため、養子縁組をするのだとか。
それはそれで奥ゆかしい感じがして、好感が持てます。
同性愛者の婚姻というのは、どこかしっくりこないというか、権利意識ばかりを叫んでいるイメージがあります。
あんまり法的な平等を求めるのは、野暮というものです。
どうせ法的に認められても、同性愛を毛嫌いする人は永遠に毛嫌いするものです。
これは男女差別や人種差別とは根本的に異なるものでしょうね。
性的嗜好で差別してはいけないといっても、小児愛やサディスト、あるいは快楽殺人など、明らかな犯罪嗜好を持った者は、社会的に隔離すべきもの。
大人同士の同性愛は犯罪ではありませんが、それらと一緒くたにされやすいものでもあります。
現にキリスト教の国ではかつて同性愛は死刑となることもある犯罪だったわけですし、今でもイスラム原理主義の国では同性愛者を死刑にしています。
仏教国では同性愛を犯罪とみなすことはありませんし、わが国では男色はむしろ大人の嗜みであったくらいで、明治維新以降、急激な西洋化によってこの良き伝統は失われ、今では同性愛者を差別するように成り下がりました。
しかしだからといって、わが国においても男同士が結婚式を挙げるなどということはなく、男色を差別するということと婚姻を認めないということには大きな違いがあるものと思われます。
従ってわが国において同性愛者がパートナーと法的関係を結ぶ制度を作る場合、婚姻という名称ではなく、もっと別の言葉を使ったほうがよいでしょう。
新しい概念に古い言葉を使うと、言葉本来の意味が破綻してしまうおそれがあります。
俗称は婚姻でも結婚でもよいですが、パートナー契約とか、より実態に近い法律用語を生み出す必要があるものと思われます。
もっとも、私は今のまま、養子縁組でいっこうに構わないと思いますが。
そのほうが道ならぬ恋という感じがして、盛り上がるのではないでしょうか。
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