今日は啓蟄ですね。
その由来を、暦便覧では、陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出ればなり、と説明します。
昨日は父の命日でした。
まさに地中の虫たちが地上に出ようとする頃、父は亡くなったのですね。
まるで新しい命に道を譲るかのように。
よく、早春や初秋に亡くなる人が多い、という話を耳にします。
そういえば、父は早春でしたし、祖母は初秋でした。
夏や冬などの過酷な季節を乗り切り、寒暖の差が激しくなった頃に、人は亡くなることが多いのかもしれません。
西行法師が春、花の下での死を切望したことは有名ですね。
願わくば 花の下にて 春死なむ その望月の 如月の頃
と。
そしてそれは、ほぼ叶えられました。
幸せな人だと思います。
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久保田 淳,吉野 朋美 | |
岩波書店 |
お盆の時期は極端に死者が減り、お盆の送りの後、人の死が激増すると、葬儀屋から聞いたことがありますが、本当でしょうか。
送られる死者が、生者を引っ張っていくんでしょうか。
不思議なことです。
父がこの時期に亡くなったせいか、私にとって啓蟄は、人さらに生物の死を考える季節になりました。
死ぬということは生きている者にとって全く不明の事態でありながら、人々は死、それに伴う死後の世界ということに思いを致さずにいられません。
最後の審判後、全ての人類は天国か地獄に行くというヤハウェの3宗教。
黄泉の国に行くという神道。
仏教はやや複雑で、輪廻転生及び解脱を説いてみたり、極楽往生を説いてみたり。
しかし仏教の死生観は、方便で色々なことを説きますが、結局は死んだ後のことなどわからない、それより現世をよりよく生きようというのが本当のような気がします。
そしてまた、死後は完全に無であるという現代的な考え方。
先進国では特に、死後は無であると考える人が多いのではないでしょうか。
死後について様々なことを人々は考え出しましたが、今のところ、誰にも本当のことは分りません。
そしておそらく、未来永劫分らないでしょう。
人類滅亡の日が来ても、人は何が何やら分らぬままに滅んでいくしかないものと予感します。
死後が如何なるものか、死んでみなければ分らないし、但しそれは死後の存在があり得た場合のみで、なおかつ一種類であった時、死後とはこういうものだと判明します。
無であればひたすら闇に沈んで何も意識しないでしょうし、死後の在り方が多様であった場合、自分が経験した世界以外のことは不明のままです。
人間が絶対に知りたいと思うことだけは、絶対に知ることができない、と嘆いたのは誰でしたか。
絶対に知りたいこと。
それはこの世の真理であり、その重要な一部が、死という不明な事態の解明であることは、間違いないように思います。
私は小難しい哲学や宗教の理論ではなく、神秘主義的な直感によってそれを感得し得るのではないかと考え、若い頃神秘思想にはまったことがあります。
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Rudolf Steiner,高橋 巖 | |
筑摩書房 |
しかし直感で感得し得るのは、せいぜい美的世界の存在くらいで、それ以外は何も知ることはできないのだと、深く失望したことがあります。
その後原始仏教、続いて大乗仏教へと興味が移り、その間には他の宗教や哲学も少し齧りました。
結果、失望は絶望に代わっただけでした。
真に、本当に知りたいことだけは、絶対に分らないようにこの世は出来ているようです。
そうであるならば、そういうものだと諦めて、せめて美的世界に遊ぶ他無さそうです。