嘆きの週あたま

思想・学問

 月曜日、これからの一週間を思うと、気が重くなります。

 電車通勤をしていた頃、電車に揺られながらよく読んだ夕刊紙に、毎週「嘆きの週あたま」という記事が連載されていました。

 サラリーマンなら誰もが、月曜日を嘆いているのでしょうね。

 月曜日を嘆くその理由の奥深くをのぞき込むと、私は私が何者でも無いと感じてぞっとします。
 世間的には事務職の小役人ということになるのでしょうが、私の心のなかでは、そういう肩書には違和感を覚えます。
 30年近く小役人をやっているにも関わらず。

 では月曜日を嘆いている私は何者でしょうね。

 私は何者か、という疑問を敷衍すれば、人間とは何者だ、という疑問が湧き上がってくるのは当然の仕儀と言えましょう。

 ソクラテスは「人間とは自己を追求する存在だ」と言い、カントは「人間とは共同体のなかで善を追求する存在だ」としました。
 また、私の亡き祖母は、「人間は褒められたくて生きている」と言いました。
 どれもあたっていると思います。

 そのような考え方は、いずれも「人間は~だ」という風に語られますが、20世紀にいたって、人間は何者でもなく、何者かになるのだ、という考えが広まります。

 善でもなければ悪でもない、本質的な価値や意味など存在しない、のっぺらぼうな人間が、後に何者かになる。

 サルトルの実存主義ですね。

 

 最も分かりやすいのは、サルトルの妻、ボーヴォワールの「女は女に生まれない、女になるのだ」という言葉。

 これらは、多くの宗教で認められた魂=本質を認めない、苛烈な言説です。
 有名な、実存は本質に先立つ、という言葉。

 これらの言説をまともに実践するのは極めて困難です。
 実存するだけで本質(魂)が存在しないのだとすれば、人は精一杯の苦労をして、本質(魂)を手に入れなければなりません。

 月曜日を嘆くその嘆きは、人間の本質によるものか、あるいはサラリーマンになったがゆえのものなのか、という卑近な疑問がわき、はるか昔に読んだサルトルの著作を思い出しました。

 多分サルトルが聞いたら腹を立てるか、失笑するか、いずれにしても私の解釈は極めて幼稚なものであろうと思います。

 あるいはまるで的外れか。

 私は西洋哲学には弱いので、的外れであっても構わないと思っています。
 私なりの解釈で、十分です。

 そのように考えてきて、結局小役人の意匠をまとった私はどういう本質(魂)を手に入れたのでしょうね。

 あるいは実存主義は間違いで、人間は元来本質(魂)を持っているのか。

 ここでは仮に実存は本質に先立つ、という意見を採ってみましょう。

 私は役所に就職し、役人になった、その後役所の世界にどっぷりとつかり、すっかり小役人の意匠を身に着けることに慣れてしまった。
 しかしそういう自分に違和感を感じ、おのれの本質であるところの魂を手に入れたのかが分からず、不安である。

 というのが正直な気持ちです。

 では小学校高学年くらいから夢見ていた小説家として生きることがかなったのなら、私は本質(魂)を手に入れることができたのか。

 それは誰にも分かりません。
 もちろん、私にも。

 私は8月で52歳になります。
 こんな年になっても、ある概念に囚われて雑文を物すようになるとは、正直思っていませんでした。

 役人ならば役人の世界で、疑問を抱かず生きていけるものだと思っていました。
 30年も勤めて、知識や経験は増えたものの、物事を青臭い考えでとらえてしまう悪癖は、変わりませんね。

 私が身に着けた本質(魂)は、嘆くこと、嘆きを忘れるために酒を呷り、浪漫的な文学や美術に逃避してしまうこと、でしょうか。

 それならば嘆きの週あたまに描かれていたようなサラリーマンらしい生態こそが、私の本質=魂なのかもしれません。

とても悲しいことではありますが。