小説とか物語というものは、基本的には嘘八百を並べ立てるもの。
古来、わが国の文芸は和歌を最高の物として、物語を一段低く見る傾向があります。
「源氏物語」の作者、紫式部は嘘八百を並べ立て、世人を惑わせた罪により地獄に落ちた、という伝承が残っています。
能に「源氏供養」という曲があり、地獄に落ちた紫式部を供養する内容になっています。
一方、男癖が悪いと評判だった和泉式部は和歌によって身を立てたため、極楽往生を遂げたとされています。
地獄に堕ちた方である紫式部は「紫式部日記」に、
和泉はけしからぬかたこそあれ(和泉式部は感心できない人間である)
と書いてライバル心をむき出しにしています。
また、同時代人の清少納言に対しては、
清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。
さばかり賢しだち漢字書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと耐えぬこと多かり。
(清少納言こそは、高慢きちな顔をして実に大変な人。少しばかり利口で漢学の才能を書きを散らしているけれど、よく見ると、十分ではない点が多い)
などと、悪口を書き散らしています。
同じ文芸の世界で活躍するタイプの違う才女に対する嫉妬でしょうねぇ。
女の嫉妬は怖ろしいと言いますから。
私は文芸の世界で身を立てる夢を見ながら、中途半端な才能ゆえにそれを断念せざるを得ませんでした。
私が嫉妬を感じたのは、村上春樹・石川淳・小林恭二・「日蝕」や「一月物語」で流麗な物語世界を構築した平野啓一郎ですかねぇ。
書く才能がないのに、優れた小説を見抜いてしまう能力があるのは苦しいものです。
映画「アマデウス」でモーツァルトの才能に嫉妬した宮廷音楽家のサリエリの気持ちがよくわかります。
サリエリ存命中はサリエリのほうが音楽家としてはるかに名声を得ていたのですが、自分の音楽はやがて廃れ、モーツァルトは野垂れ死にして共同墓地に埋葬されながら、その音楽は永遠の命を持っていることを直感的に知ってしまったのでしょうね。
映画の最期、サリエリは自らを凡人の王と呼びます。
なんとも鬼気迫る演技でした。
私はこのままいくと凡人の婢女とでも言う他ないですねぇ。

にほんブログ村

本・書籍 ブログランキングへ