因果はめぐる

社会・政治

 因果は巡ると言いますが、旧日本軍による慰安婦の問題を世界に喧伝している韓国、最近ベトナム戦争当時韓国軍によってベトナム人の女性が性的虐待を受けていたと訴えられているそうです。

 軍隊、わけても戦時下の軍隊に慰安婦は付き物で、おそらく世界中の軍隊が性的虐待を行った過去があるのではないでしょうか。

 韓国がベトナムからの抗議にどう応えているか知りませんが、韓国のネット上では、とっとと謝って日本とは違うことを示すべきだとする言い分と、ベトナム戦争に参加した国はあまたあるのに韓国だけ責められるのはおかしい、という説があるやに聞き及びます。

 しかし不思議ですね。
 殺し合いでしかない戦争そのものが最大の悪なのに、それに付随する性的虐待ばかりを言い立てるとは。

 同じ種類の動物同士が大規模に殺しあうのは、私の知るかぎり人間だけです。
 まるで殺し合いこそ人間の本能であるかのごとくです。

 しかし一方、お釈迦様の昔から、戦争は悪であり、殺し合いをしてはならない、という考え方も、広く人類全般にいきわたっています。
 今も平和運動は世界中で盛んです。

 しかし平和を唱えるだけでは、戦争の抑止にはなりません。
 そこが人間の最も悲しい点でしょう。

 戦争を抑止するには、十分な防衛力を維持しつつ、脅したりなだめたりすかしたり、さまざまな困難な交渉を半永久的に、しかも不断に続けるしかありません。

 戦争反対を唱えるのは簡単ですが、防衛力の整備や不断の交渉を続けることは、たいそう面倒くさいことで、だからこそ反核平和教とも言うべき楽な道を求める人が後を絶たないのでしょう。
 気持ちは分かりますが、ほとんど無意味なことです。

 あえて困難な道を歩まなければ、未来永劫、戦いはなくならないでしょう。

 しかし私は、わずかな希望を持っています。
 たとえば2度の世界大戦のような、軍事大国同士がガチンコで戦うような状況は、もはや想像しにくい世の中が現出しました。
 これを敷衍していけば、少しづつでも、殺し合いの頻度は減っていくような気がしています。

 ただ、気を付けなければならないのは、利益を求める戦争を根絶せしめることは可能でしょうが、正義を求める殺し合いはなくならないということ。
 利益のためなら、戦うことが不利益になるようにすれば良いわけで、思想信条は関係ありません。
 しかし思想信条で戦う人は手に負えません。

 まずは、絶対に正しい考えなど存在しないのだということが、唯一の正しい考えだと思い知ることでしょうねぇ。
 道は遠いですが。