天皇誕生日そしてウクライナ

文学

 今日は天皇誕生日。
 首都圏の空は見事に晴れ上がり、春を感じさせます。
 今上陛下の62歳の誕生日を、天までが寿いでいるかのごとくです。
 
 この良き日に、ロシアがウクライナ東部の親ロシア派武装勢力が支配する地域の独立を承認したとのニュースが飛び込んできました。
 ロシアは武力をもってこの地域を制圧し、その先にはウクライナ侵攻、そして親ロシア傀儡政権の樹立が待っているのでしょうか。
 あるいは一足飛びにロシアへの併合が待っているのでしょうか。
  またも多くの血が流れるのでしょうか。

 ひと昔前なら、世界大戦になっていたでしょう。
 しかし今は、米国の力が弱まっているのみならず、あちらもこちらも核武装しているため、動きがとれません。
 核の抑止力とは言いますが、そんなものがなければ抑止できないのでしょうか。 

 嫌なニュースです。

 しかし私はロシアを責める気も擁護する気もありません。
 ただ人間という種の愚かさを思うだけです。

 思えば人間の歴史というもの、もっぱら戦争に彩られているようです。
 そして平和を享受するわが国においても、源平の争乱や戦国時代のドラマや映画が人気を集めています。
 会社などの組織でも、小さな権力闘争が繰り広げられています。

 要するに、他人より力や名誉、財宝を持ちたいという欲求が人を突き動かしているだけです。
 それ以外に、人間が力を発揮する場などないでしょう。

 そういうことから縁遠いはずの学者や芸術家だって、学長になりたいだの、文学賞だか音楽賞だかをもらいたいだの、浅はかな欲求を持っています。
 そちろんそういうものを拒絶する人もいますが、拒絶すること自体、意識しているとしか思えません。
 自分はゲスな欲求など持っていないと誇ってでもいるような。 

 もう10年以上まえですが、私は精神的な病のせいで長く病気休暇を取ってしまい、それゆえ出世からは縁遠い存在になりました。 
 もはや世の中を斜に構えて生きていくしかありません。

 私は今52歳。
 今上陛下よりも10歳ほど年下です。
 平均寿命が80歳に達する現代において、まだ生きるの死ぬのを考えるには早いはずです。
 しかし私には妙にせっかちなところがあります。
 二か月早産の未熟児であったこともその一つ。
 あと二か月が待てなかったのですね。
 それと同様、早くも死を考えるようになりました。
 その時は年寄だと思っていた石原裕次郎や美空ひばりも、今の私と同世代で亡くなっていますし。 

 四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒

 上杉謙信の辞世です。

 四十九年のわが生涯は、振り返ってみれば一睡の夢のようなもので、この世の栄華は一盃の酒に等しい、といったところでしょうか。

 平家物語でも、盛者必衰ということが語られます。

 わが国の人々は、この世を儚いものととらえ、現在勢いのある者も必ず衰える、という感覚を、誰に学ばなくても持っていると思います。

 それは仏教や神道や儒教の教えというよりも、わが国を覆う日本教とでも呼ぶべきもの。
 当然私もその感覚に毒され、かつての平均的な寿命であったろう、五十歳を超えて、自分自身が滅んでいくことに近づいているような気がしてぞっとします。

 身近な老人である義母は足が衰えて歩くこともままならず、すっかり腰が曲がってしまいました。
 そう遠くない未来の自分を見ているような気分です。

  自分がいくつまで生きるかは分かりません。
  定命は天の知るところ、おのれの知るところではありません。

 そんなことを考えていると、ロシアと西側諸国の対立や、ましてオリンピックで何個メダルを獲得したなど、取るに足りないことに感じます。

 お釈迦様の遺言に、自灯明法灯明という言葉があります。
 乱暴に言えば、自分自身と仏法を灯りとして正しい道を歩め、ということでしょう。  

 俗世に生きる私たちはもちろん、政治家や独裁者にも肝に銘じてほしい言葉です。

 しょせん猿より毛が三本多いだけの愚かな生き物には無理な話なのかもしれませんが。