春は来ぬ。
空気凛冽なれども、春の気配濃厚たり。
我、この気配に接し、心躍ることなし。
ただ、春の気配を怖れるのみ。
そは、春の魔にして、人をして狂わせ、憂愁に沈めるのみ。
春は狂気を孕み、我、その瘴気にあてられざる能わず。
古人、多く春を怖れるあり。
春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる
かくのごとき和歌、生まれざるを得ざる所以のものは、ひとえに春を怖れたるなり。
わけても春の宵闇に隠れいたるは何者か。
化け物か、妖気孕む者か。
我、定かならずといえど、そを感じること甚だし。
妖気に接し、我、不思議の心地して、我が身が変貌すを感得したり。
何者に変貌したるか。
そを表す言葉を知らず。
ただ妖かしの者に近づきたるを覚えるのみ。
我、もはや人たることに耐えざるや。
いっそこの世ならぬ者に変じ、春の瘴気を生み出す元となりたるか。
我が変貌したる姿、ザムザのごとき醜い虫に非ず。
毒を隠し持つ、しかれども天女のごとき美しき魔物に他ならず。
ザムザのごとく野垂れ死にの憂き目にあうこともなし。
春来たりなば宵闇に紛れ、瘴気を吐かむと欲す。
瘴気は毒に変じ、春の宵を包みこむ。
その時こそ我、人に戻ること能はず、ただ妖かしの世界を終の棲家とすべし。
魔界こそ、我が棲家にふさわしければなり。