孤独な営為

その他

  町村元衆議院議長が逝去されました。
 70歳であったとか。
 東大を出て通産省に入省し、その後政治家としてあまたの要職を歴任したパワー・エリートでした。
 功成り名を遂げた人と言って良いかと思いますが、亡くなるときは呆気ないものです。

 野垂れ死にする半端なヤクザ者も、功成り名を遂げた人も死を前にしては平等なのでしょうか。
 もちろんパワー・エリートにはこれからたいそう立派な葬儀が行われるのでしょうが、それがなんだというのでしょう。

 立派な墓に入ろうと、多くの人が悼もうと、無縁仏になった人と、何の変わりもありません。 

 死者が千の風になって吹き渡っているとは思いませんし、墓地や慰霊碑を大事にしてきたわが民族の死生観は尊重されるべきではあろうとは思いますが、人の死に接して、私にはいずれも生きている者の自己満足に過ぎないような気がして仕方ありません。 

 それは考えてみれば当然で、我々は死が如何なる事態か全く理解できないわけですから、現世を生きる者が想像可能な方法で死者を弔ったり、死後の世界に思いを馳せたりするほか何もできません。 

 うつ状態がひどい時、自殺願望を口にする私に、精神科医は、「何もしなくても、生きているだけで価値があるのだ」と諭しました。
 私はそれを聞いて、自殺を思いとどまらせようとする方便だとしか思いませんでした。
 それは病癒えた今も同じです。 

 では何に価値があるのかと問われれば、沈黙せざるを得ません。
 そのようなことは、あまたの哲学者や文学者、宗教家がそれぞれに解釈を施していますが、これが答えだと言えるようなものは、この世に存在し得ないでしょう。 

 しかし少なくとも、立身出世が生きる価値だとは、到底思えません。
 それはほとんど一生を酔っぱらって過ごすのと同じようなものだと思います。 

 結局のところ、ひとりびとりが、それぞれ暗中模索して答えを探さなくてはならないもので、それはたいへん孤独な営為です。
 その孤独に耐える強靭な精神力を持っている人は多くないだろうことは、想像に難くありません。

 かく言う私にも、そんな精神力は備わっていません。

 だから日々をくだらぬ仕事に費やし、夜は酔っ払い、休日には小説や映画、美術鑑賞などで現実逃避を繰り返しているわけです。 

 強い精神力と、それを支える体力を切望せずにはいられません。
 しかし人は、与えられた能力の範囲内でしか、この世を渡っていく術を持ちません。

 40代も半ばを迎えて、私が人間革命を起こすことなど考えられず、このまま酔生夢死の生涯を送るのかと思うと、絶望的な気分になりますが、しかし、私は少なくとも、激しいうつ状態や憂愁に囚われることはなくなりました。

   図々しくなったことだけが、私が経験から得た果実であるようです。

  私はこの図々しさを武器に、孤独な営為に挑んでいければと、夢想するばかりです。