安楽死もしくは尊厳死

社会・政治

ドライないい方をすれば、老人は もはや社会的に活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは、社会的罪悪であり、その報いが、孤独である、と私は思う。

○障害者などの劣等遺伝による障害児の出生を防止することも怠ってはならない。

○障害者も老人もいていいのかどうかは別として、こういう人がいることは事実です。しかし、できるだけ少なくするのが理想ではないでしょうか。

○植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人だけが優先性を持っているのであって、重症障害者や恍惚の老人から〈われわれを大事にしろ〉などと言われては、たまったものではない。

 上は、元国会議員で、初代安楽死教会会長を務めた産科医、太田典礼の発言です。
 この発言を見ると、先日の障害者大量殺人を思い起こさずにいられません。
 また、ナチによる障害者の虐殺も。

 このような考え方に対しては、多くの人々が生理的嫌悪を覚えずにはいられないでしょう。
 
 しかし、障害者や老人、植物人間などは安楽死させたほうが良いと考える人々も、一定の割合で存在することもまた、確かなようです。
 なにしろ上のような考え方の持ち主が国会議員に当選してしまうくらいですから。

 ドライな言い方をすれば、と言うより、功利的に見れば、上のような意見もうなづけます。
 それなのに、一見合理的なようでいて、なぜ私たちはそれら意見に生理的嫌悪を覚えるのでしょうね。

 それは一種の直感のようなものなのかもしれません。

 社会に役立たないという理由だけで、人を殺すことは
悪であり、耐えがたい、という。

 現在は安楽死という言い方よりも尊厳死という言い方を多用するようです。

 スイスやオランダなどの欧州諸国、また、米国の一部の州などでは、厳格な運用のもと、尊厳死が法的に認められています。

 その多くは、病気などで耐えがたい苦痛があり、治癒は不可能であり、本人が尊厳死を強く望んでいる場合などに限定されますから、社会に役立たない奴は殺してしまえ的な、テロリストのような考えに基づくものとは根本的に異なり、多くの人が受け入れられる法律であろうと思われます。

 むしろわが国のように、苦しもうがなんだろうがとにかく生かしておくのが医学の使命、みたいな考えのほうが、自分が苦痛に満ちた晩年を送る可能性を考えると、怖ろしく感じられます。

 尊厳死ということと、社会に役立たない者は安楽死もしくは自殺すべきだという考えは、相容れないもので、これを混同してはいけません。

 私は百万言の理屈よりも、自らの、そして圧倒的多数の人々の直観を恃みたいと思っています。

 理由はどうあれ、殺すこと、死を強要することは悪であるに違いないのだ、と。