最近、おっさんになったせいか、全く声をかけられなくなりましたが、学生の頃など、都内の繁華街でよく、「手相の勉強をしています」などと言って、明らかに怪しい宗教の勧誘と思われる人に引っかかりました。
もちろん、それに応じるような愚は犯したことはありません。
驚くべきことに、日蓮宗の寺院である実家に、霊感商法だかなんだか知りませんが、高額の壺などを売りつけようとする者が時折訪ねてきたことです。
住職である父は激怒し、一喝して終わりでした。
ていうか、お寺に霊感商法を仕掛けるとは、大したクソ度胸です。
そういうことはもう20年も経験していませんが、時折、イワシの頭でもソンシでも良いから、それは嘘だと知りながら頭から信じ込めたら、生きるのが楽になるんじゃないかなぁと思うことがあります。
既成宗教と新興宗教を分けるものは、要するに古くからある宗教か、最近100年くらいに生まれた宗教かということで、教義上の優劣は問えないものと思います。
時の審判を経てきたという重みはあるにせよ、仏教もキリスト教も生まれたときは新興宗教であったわけですから。
では、カルトと宗教を分けるものは何でしょうね。
カルト(cult)は、もともと祭祀・儀礼を意味するラテン語だそうで、現在のような意味で使われるようになってからは100年も経たないようです。
米国ではキリスト教系の新興宗教であるモルモン教やエホバの証人を指して使い始めた言葉と聞きますが、両方とも、カルトどころか、新興宗教とも言えないくらい広く浸透しています。
こうして新興宗教は既成宗教になっていくのでしょうね。
おそらく、カルトという言葉が広まった最大の事件は、人民寺院事件と呼ばれる、1978年に宗教コミューンにおいて発生した918名の信者による集団自殺事件ではないでしょうか。
この事件をモデルにした映画がたびたび作られ、そのために多くの人に知られるようになっているように思います。
おそらくカルトと新興宗教を分けるものは、①洗脳、マインドコントロールなどの精神操作、②信者に対する虐待や殺害、③全財産の寄附を強要するなどの経済的搾取、の三つではないかと思います。
三つともそろえば間違いなくカルトだし、2つでもカルトと言えるのではないでしょうか。
もっと言えば、信者の倫理性が陶冶されたか否か、それだけでカルトか宗教かを測ることができるかもしれません。
宗教と倫理は密接な関係を持っていますから。
しかし、カルトに洗脳されている最中は、その信者は自らの倫理性が陶冶されたと言い張るでしょうから、客観的ではありません。
また、面白い現象として、反カルトの団体が出来ると、そのカルトの結束が高まったり、別のカルトが生まれたりという、反作用が起きることです。
反カルトも、心理学的に言えば逆洗脳みたいなものですから、反カルトも過激になればカルトになっちゃうんでしょうね。
セールスの達人が繰り広げる話術や人心掌握の技術は、カルトの洗脳とよく似ているそうで、人間、騙す目的は違っても、騙す方法は似ているのかもしれません。
宗教が宗教であるためには、倫理性が当事者に十分担保されていることが最重要でしょうね。
もっとも、既成宗教でも、葬式仏教などと揶揄されるように、単なる金儲けのためにやっているとしか思えない坊さんや神父、牧師などが存在することもまた事実。
我が国では道徳教育に宗教色を出してはいけないことになっています。
それでいて、最近は道徳教育を重視しようという流れになってきました。
これはなかなか難しいと思います。
なんだかんだ言っても、わが国の倫理規範を牽引してきたものは大乗仏教であろうと思います。
それにプラスして、論語や神道の精神などがないまぜになって、日本教ともいうべき空気が醸成され、わが国で生まれ育てば、自然とそれが身に付くようになっています。
道徳教育においては、宗教教育というのではなく、さまざまな宗教の考え方を紹介する、という形でそのエッセンスを教え、もってカルトなどに走らぬように教育するのがよろしかろうと思います。
もっとも、そんな能力を持った小学校や中学校の教師がいるとも思えませんが。