家族じまい

文学

 やっと迎えた週末。
 週末の喜びだけが私を生かしているようなものです。
 勤務中の私は死んでいないだけです。

 今日は午前中、読書をして過ごしました。
 読んだのは「家族じまい」
 近頃お気に入りの桜木紫乃の小説です。

 午後は本屋と和菓子屋に出かけ、小説を2冊と栗蒸し羊羹を購入。

 家族じまいと聞くと、誰もが墓じまいという言葉を連想するかと思います。
 墓を終わらせるがごとく家族を終わらせる物語ではありません。

 5つの短編小説から成っており、それらが、例えば長女を主人公にした小説から二女を主人公にした小説になり、両親、伯母、何の関係もないが両親の旅で行きあう若いサックス奏者と、何らかのつながりを持った連作短編集になっています。

 家族を終わらせることは、例えば離婚とか死別とか色々あるでしょうが、結局、何となく終わっていくのだろうと思います。
 おぎゃぁと生まれた子供が成長する過程で父母や祖父母、きょうだいらと過ごして家族の中で生き、長じて自分もまた結婚して家族を持つ。
 切れ目の無い繰り返しのようでいて、全ての家族は終焉を迎え、二度とその家族がもとに戻ることはありません。

 年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。

 この作者の深奥に流れるわが国びとの根本的思想がこの作品集にも色濃く流れています。

 幼くして両親が離婚して母親に引き取られた娘が、それでも時折父に会い、わずかな時間だからこそ優しい愛情しか感じさせない父親を男のスタンダードと捉え、他の男と続かないことを嘆きながら、父と鮨屋で一杯やりながら、次のような感慨を持ちます。

 ふと、終わることと終えることは違うのだという思いが胸の底めがけて落ちてきた。

 なるほど、家族は終わることが多いが終えることもあるのでしょうか。

 また、82歳で矍鑠としている姉が80歳で認知症になった妹にかける次のような言葉。

 だいじょうぶだから。安心して忘れなさい。わたしが代わりに覚えていてあげるから。

 認知症の発症は家族に甚大な危機をもたらすでしょう。
 二人の娘を育て、二人になった夫婦のうち、妻が認知症になって施設に入る、しかも父親は娘たちと折り合いが悪い。
 これもやむを得ない家族の終わりかもしれません。

 私のことを考えてみれば、そもそも子供が出来なかったうえに親と同居したことも無いため、二人だけの暮らしを26年も続けてしまいました。
 私にはしまうべき家族すら存在しないのかもしれません。

 心に沁みる連作短編集でした。