安岡章太郎の小説に、「舌出し天使」というのがあります。
これを読んだのは中学生の頃のことで、もう内容もおぼろなのですが、恥ずかしながら服部達という33歳で自殺した文芸評論家をモデルにした作品だということは、大学を出るまで知りませんでした。
「舌出し天使」は戦地から帰った青年の女難めいた悲喜劇をやや自虐っぽいユーモアのスパイスを効かせた作品で、中学生の私には面白く感じられました。
もっとも、これが安岡章太郎の失敗作として評論家に迎えられているらしいのですが。
先日、服部達の「われらにとって美は存在するか」といういかめしいタイトルの遺稿集を読む機会に恵まれました。
服部達という人、その当時文芸評論家の間で流行していたマルクス主義的アプローチや、思い入れたっぷりの作家べったりな批評を拒絶し、純粋に審美的な方法を目指したとされています。
その当時は知りませんが、そんなことは私が物心ついた頃から当たり前でしたけどねぇ。
文学作品というのは作者と読者の共同作業によって出来上がる神秘体験であると意味付け、サルトルの次のような文章を引用しています。
生産者の側から見るならば、美を支えるものは想像力の働きである。
想像力はわれわれの知覚に抗して現実界に尽きるところに非現実界を生ぜしめる。
そして、『芸術作品とは非現実的存在である』。
私には当たり前すぎるほど当たり前な定義ですが、政治の季節を目前にした当時、このような論は現実逃避の卑怯者の言い訳に見えたのかもしれませんねぇ。
一年ほど前、私はこれとやや似た趣旨の記事「ネズミ算」を書いています。
↓
https://tobiomasahiro.com/s/%A5%CD%A5%BA%A5%DF%BB%BB
で、その服部達ですが、自殺の原因は多額の借金とされ、方法はちょっと変わっています。
すなわち、睡眠薬を大量に服用し、清里村のキリスト教会研修センターから八ヶ岳に向かって歩いていき、雪山で倒れ凍死、ということでした。
雪山で凍死という死にざまは審美的文芸評論家らしいと言えばらしいですね。
しかし原因が借金というのはいただけませんねぇ。
借金なんか偏屈な文学論を喚き散らして、あいつは気がくるってる、と思わせて踏み倒してやるぐらいの気骨が欲しかったところです。
時代に逆らったというより、先取りしたというより、伝統に回帰したというべき若き文芸評論家が、1956年という、新生日本の文学界が混迷を深める中、自ら命を絶ったことは、誠に残念です。
![]() | われらにとって美は存在するか (講談社文芸文庫) |
勝又 浩 | |
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